りに来ている人は勝手に隅っこで練習している。最初、クイックステップを二三回踊り、脚を楽にさせておいて、エキジヴィションのタンゴにかかった。五時半まで彼女は踊りつづけた。その間、阿難の片鱗すらない。
「阿難、一体何を考えているの」
仁科六郎は遂にたずねた。疑惑や好奇からではなく、又この女の実体をつかんでやれと云うのでもない。唯、理解したかったのだ。
「阿難はあなたのことを考えているの。考えていると云うよりおもいつめているの」
実際、阿難の云うことは真実であった。然し、南原杉子は、そういった阿難を傍観しているに違いない。仁科六郎は阿難と南原杉子を混然一体として考えている。
「阿難、僕が若し妻と別れて、阿難と結婚しようとしたら」
仁科六郎にその勇気はない。だが彼は阿難を理解する手段に始めて彼らしからぬ質問をしたのだ。それを南原杉子はみぬいていた。だが、阿難は答えたのだ。
「うれしいわ」
「じゃあ、阿難、いつか結婚しないなんていったこと嘘?」
「こんなにあなたを愛するとは思っていなかったの。阿難は始めて世の中に愛する人を発見したの」
「じゃあ、僕に接している一人の女性、僕の妻をどう思うの」
「御目に掛れば嫉妬するでしょう。阿難はにくむかも知れません。でも、今は、あなたの奥様、幸せな方だと思うわ」
「幸せ? だが僕は妻を愛しちゃいないんだよ」
「でも、奥様は愛されていると思ってらっしゃるでしょう」
「夫の義務は行っているからね。僕は妻をいつわっていることになる。みえない部分ではね。仕方ないことだ。苦痛。だが苦痛よりも阿難とのよろこびの方が大きいのだ」
「一番幸せなのは阿難です」
阿難は二度その言葉を口にした。それは仁科六郎に大きな満足をあたえたのだ。阿難は、仁科六郎の頬に強く頬を押しあてた。
――阿難、どうして結婚して下さいと仁科六郎にたのまないの。出来ない。南原杉子。南原杉子は、仁科六郎と結婚したいとのぞまない。毎日の生活、習慣になった愛情の表現。それは退屈であきあきするに違いない。そればかりではない。自分の感覚をすりへらしてゆかねばならない。妥協はもっとも嫌悪するところの行動なのだ。南原杉子は、世の多くの女性を不幸だと思い嘲笑もしている。仁科六郎の妻に対してもだ。ああ、蓬莱和子。彼女は、彼女と彼女の夫との状態はどうなんだろう――
南原杉子はふと笑いを洩したの
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