「誰の」
「阿難のよ。阿難、ピアノ弾くのよ」
「何故、今までかくしていたの」
「云う機会がなかったもの、阿難が弾くと云う時は、ピアノの傍でひきはじめる時よ」
「すごい自信だね」
「ええ、但し、近代もの以外は人の前でひけないのよ」
「きかせてほしい」
「即物的じゃないわよ」
「何でもいいききたい」
「何でもいいとはひどいわ。私、自分のひき方を決めてあるわ。いろいろ変えたけど。でも、ラヴェール、ドビュッシーあたりがひけると思うだけよ」
「誰に習った?」
「あなたの知ってる人、大方に師事したけどみんないやでよしたの。後は、レコード勉強と、本勉強よ」
「どうしてピアニストにならなかった?」
「あら、これからなるかも知れなくてよ」
阿難が喋るのだ。恋をする女は恋人を前たして喜びにみちている。
「お暇なら、これからきかせてあげる」
「どこで」
阿難は笑ったが何も云わずに冷いのみもののストローに口をつけた。
ダンス場はまだしんとしていた。開場までに一時間ある。それに、今月はピアノのレッスンもない。
入口の事務所でピアノの鍵をもらって来た阿難は、静かに、ぬりのはげたアプライトのピアノの蓋をあけた。
「水の反映」透明で、しかもかたくない。露がころがってゆくような、そして、音にふれたいような欲望を起させる。
「阿難、素晴しい人だ」
仁科六郎は、弾き終った彼女の背後にちかづいた。
「阿難もよくひけたと思うの、だけどほめられて嬉しい」
斜めに首をまわした阿難の頬は紅潮していた。
「阿難」
仁科六郎は両手で阿難の肩を抱いた。阿難はしばらく酔っていた。だが、南原杉子にもどった。ダンスのレッスンがもうじきはじまるのだ。二人は外へ出た。六時に会う約束をして別れた。会う場所は、別れた角の喫茶店。常に同じ場所で会うことをお互に拒んだ。仁科六郎は人目がうるさいから。
阿難はいつも新しい印象を与えられたり又与えたくもあったからだ。決った場所。決った時間。決った曜日。それは陳腐で倦怠の連続だから。
南原杉子はいそぎ足でカレワラへゆき、荷物を受取って(蓬莱和子は不在であった)レッスン場に戻った。五月後にタンゴのコンテストがある。彼女は競演するつもりでドレスをこしらえたのだ。荷物をあずけ、靴をはきかえて彼女はパートナーと練習をはじめた。すでに赤羽先生である。五日間は教授休業である。三四組、踊
前へ
次へ
全47ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久坂 葉子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング