立ち止まっていたかもしれなかったが、ふとかくしにある固《かた》い丸《まる》いものが手にさわった。わたしの時計であった。
ありったけのわたしの悲しみはしばらくのあいだ忘《わす》れられた。わたしの時計だ。自分の時計で時間を知ることができるのだ。わたしは時間を見るために、それを引き出した。昼だ。それは昼であろうと、十時であろうと、十一時であろうと、たいしたことではなかった。でもわたしは昼であるということがたいそううれしかった。それがなぜだか言うのはむずかしい。けれどそういうわけであった。わたしの時計がそう知らせてくれる。なんということだ。わたしにとって時計は相談《そうだん》をしたり、話のできる親友であると思われた。
「時計君、何時だね」
「十二時ですよ、ルミさん」
「おやおや。ではあれをしたり、これをしたりするときだ。いいことをおまえは教えてくれた。おまえが言ってくれなければ、ぼくは忘《わす》れるところだったよ」
わたしのうれしいのにまぎれて、カピがほとんどわたしと同様に喜《よろこ》んでいてくれることに気がつかなかった。かれはわたしのズボンのすそを引《ひ》っ張《ぱ》って、たびたびほえた。かれがほえ続《つづ》けたときわたしは初《はじ》めて、かれに注意を向けてやらなければならなかった。
「カピ、なんの用だい」とわたしはたずねた。かれはわたしの顔をながめた。けれどわたしはかれの意味が解《と》けなかった。かれはしばらく待っていたが、やがてわたしの前に来て、時計を入れたかくしの上に前足をのせて立った。かれはヴィタリス親方といっしょに働《はたら》いていたじぶんと同じように、「ご臨席《りんせき》の貴賓諸君《きひんしょくん》」に時間を申し上げる用意をしていたのであった。
わたしは時計をかれに見せた。かれはしばらく思い出そうと努《つと》めるように、しっぽをふりながらそれを、ながめたが、やがて十二|度《たび》ほえた。かれは忘《わす》れてはいなかった。わたしたちはこの時計でお金を取ることができる。これはわたしがあてにしていなかったことであった。
前へ進め、子どもたち。わたしは刑務所《けいむしょ》に最後《さいご》の目をくれた。そのへいの後ろにはリーズの父親が閉《と》じこめられているのだ。
それからずんずん進んで行った。なによりもわたしに入り用なものは、フランスの地図であった。河岸《かし》通りの本屋へ行けば、それの得《え》られることを知っていたので、わたしは川のほうへ足を向けた。やっとわたしは十五スーで、ずいぶん黄色くなった地図を見つけた。
わたしはそれでパリを去ることができるのであった。すぐわたしはそれをすることに決めた。わたしは二つの道の一つを選《えら》ばなければならなかった。わたしはフォンテンブローへの道を選んだ。リュウ・ムッフタールの通りへ来かかると、山のような記憶《きおく》が群《むら》がって起こった。ガロフォリ、マチア、リカルド、錠前《じょうまえ》のかかったスープなべ、むち、ヴィタリス老人《ろうじん》、あの気のどくな善良《ぜんりょう》な親方。わたしをこじきの親分へ貸《か》すことをきらったために、死んだ人。
お寺のさくの前を通ると、子どもが一人かべによっかかっているのを見た。その子はなんだか見覚《みおぼ》えがあるように思った。
確《たし》かにそれはマチアであった。大きな頭の、大きな目の、優《やさ》しい、いじけた目つきの子どものマチアであった。けれどかれはちっとも大きくはなっていなかった。わたしはよく見るためにそばへ寄《よ》った。ああそうだ、そうだ、マチアであった。
かれはわたしを覚《おぼ》えていた。かれの青ざめた顔はにっこり笑《わら》った。
「ああ、きみだね」とかれは言った。「きみは先《せん》に白いひげのおじいさんとガロフォリのうちへ来たね。ちょうどぼくが病院へ行こうとするまえだった。ああ、あれからぼくはどんなにこの頭でなやんだろう」
「ガロフォリはまだきみの親方なのかい」
かれは返事をするまえにそこらを見回して、それから声をひそめて言った。
「ガロフォリは刑務所《けいむしょ》にはいっているよ。オルランドーを打ち殺《ころ》したので連《つ》れて行かれたのだ」
わたしはこの話を聞いてぎょっとした。でもわたしはガロフォリが刑務所に入れられたと聞いてうれしかった。初《はじ》めてわたしは、あれほどおそろしいものに思いこんでいた刑務所が、これはなるほど役に立つものだと考えた。
「それでほかの子どもたちは」とわたしはたずねた。
「ああ、ぼくは知らないよ。ガロフォリがつかまったときには、ぼくはいなかった。ぼくが病院から出て来ると、ぼくは病気で、もうぶっても役に立たないと思って、あの人はわたしを手放したくなった。そこであの人はわたしを二年のあいだ
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