「うん、カピはよい犬だ。しかしやっぱり犬は犬だからな。おまえはいったいどうしてくらしを立てるつもりなのだ」
「わたしが歌を歌ったり、カピが芝居《しばい》をしたりして」
「しかしカピ一人ぼっちで、芝居はできやしないだろう」
「いえ、わたしはカピに芸《げい》をしこみます。そうだろう、ね、カピ。おまえ、なんでもわたしの望《のぞ》むものを習うだろう」
 カピは前足で胸《むね》をたたいた。
「ルミ、おまえがよく考えたら、やはり職《しょく》を見つけることにするだろうよ。もうおまえも一かどの職人《しょくにん》だ。流浪《るろう》するよりもそのほうがましだし、だいいち、あれはなまけ者のすることだ」
「ええ、もちろんわたしはなまけ者ではありません。わたしはお父さんといっしょにならできるだけ働《はたら》きます。そしていつでもお父さんといっしょにいたいと思っています。でもほかの人のうちで働くのはいやなんです」
 もちろん、たった一人、大道ぐらしを続《つづ》けてゆくことの危険《きけん》なことはよくわかっていた。それはさんざん、つらい経験《けいけん》もしている。そうだ、人びとがわたしのように流浪《るろう》の生活を送って、あの犬たちがおおかみに食べられた夜や、ジャンチイイの石切り場のあの晩《ばん》のような目に会ったり、あれほどひもじいめをしたり、ヴィタリス親方が刑務所《けいむしょ》に入れられて、一スーももうけることができず、村から村へと追い立てられたりしたようなことに出会ったら、だれだってあすはまっ暗やみ、現在《げんざい》さえも不安心《ふあんしん》でたまらないのが当たり前だ。危険《きけん》な、みじめな、浮浪人《ふろうにん》の生活をわたしは自分が送ってきたことも忘《わす》れはしないのだ。だがいまそれをやめたら、わたしはいったいどうしていいかわからないではないか。それにもう一つ、旅に出るについて決心を固《かた》くするものがあった。いまさらよそのうちに奉公《ほうこう》するよりも、わたしにはこの流浪《るろう》の旅がずっと自由で気楽なばかりでなく、エチエネットや、アルキシーやバンジャメン、それからリーズとしたやくそくを果《は》たすためにもこの旅行を思いとどまることはできなかったのだ。どうしてこのことはあの人たちを見捨《みす》てないかぎり、やめられないのだ。もっともエチエネットやアルキシーやバンジャメンからは、手紙が書けるので手続も来ようが、リーズといえば、書くことも知らないのだから、ここであの子のことをわたしが忘《わす》れてしまえば、もうかの女はなにもかも世界の様子がわからなくなってしまうのだ。
「では、お父さんは、お子さんたちの便《たよ》りを、わたしが持って来るのがおいやなのですか」とわたしはたずねてみた。
「なるほどみんなの話では、おまえは子どもたちの所へ一人ひとり訪《たず》ねて行ってくれるということだが、それはありがたいが、といって、わたしたち自分のことばかり考えているわけにはゆかない。それよりかまずおまえのためを考えなければならないのだよ」
「では、わたしだってお父さんのおっしゃるとおりにして、自分の身の上の危険《きけん》をおそれて、今度の計画をやめてしまえば、やはり自分のことばかり考えて、あなたのことも、それからリーズのことも考えなくてもいいということになりますよ」
 お父さんはしばらくわたしの顔をながめていたが、急にわたしの両手を取った。
「まあ、よくおまえ、言っておくれだ。おまえはほんとうに真心《まごころ》がある」
 わたしはかれの首にうでをかけた。そのうち、さようならを言う時間が来た。しばらくのあいだかれはだまってわたしをおさえていた。やがていきなりかれはチョッキのかくしを探《さぐ》って、大きな銀時計を引き出した。
「さあ、おまえ、これをあげる」とかれは言った。「これをわたしの形見に持っていてもらいたい。たいした値打《ねう》ちのものではない。値打ちがあればわたしはとうに売ってしまったろう。時間も確《たし》かではない。いけなくなったらげんこでたたきこわしてもいい。でもこれがわたしの持っているありったけだ」
 わたしはこんなりっぱなおくり物を断《ことわ》ろうと思ったけれど、かれはそれをわたしのにぎった手に無理《むり》におしこんだ。
「ああ、わたしは時間を知る必要《ひつよう》はないのだ。時間はずいぶんゆっくりゆっくりたってゆく。それを勘定《かんじょう》していたら、死んでしまう。さようなら、ルミや。いつでもいい子でいるように、覚《おぼ》えておいで」
 わたしはひじょうに悲しかった。どんなにあの人はわたしに優《やさ》しくしてくれたであろう。わたしは別《わか》れてのち長いあいだ刑務所《けいむしょ》のドアの回りをうろうろした。ぼんやりわたしはそのまま夜まででも
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