れば、夜になって宿《やど》をたのむこともできよう。けれどこうパリの近くでは……このへんで宿をたのむことはできない。さあ」
 二足三足行くとわたしは横へはいる道を見つけたように思った。ちょうどいばらのやぶらしく思われる黒いかたまりもあった。わたしは先へ急いで行くために親方の手を放した。往来《おうらい》には深いわだちのあとが残《のこ》っていた。
「ほら、ここに輪《わ》のあとがある」とわたしはさけんだ。
「手をお貸し。わたしたちは救《すく》われた」と親方が言った。「ご覧《らん》、今度は森が見えるだろう」
 わたしはなにか黒いものが見えたので、森が見えるように思うと言った。
「五分のうちにそこまで行ける」とかれはつぶやいた。
 わたしたちはとぼとぼ歩いた。けれどこの五分間が永遠《えいえん》のように思われた。
「車の輪《わ》のあとはどちらにあるね」
「右のほうにあります」
「石切り場の入口は左のほうだよ。わたしたちは気がつかずに通り過《す》ぎてしまったにちがいない。あともどりするほうがいいだろう」
「輪《わ》のあとはどうしても左のほうにはついていません」
「ではまたあともどりだ」
 もう一度わたしたちはあともどりをした。
「森が見えるか」
「ええ、左手に」
「それから車の輪《わ》のあとは」
「もうありません」
「わたしは目が見えなくなったかしらん」と親方は低《ひく》い声で言って、両手を目に当てた。「森についてまっすぐにおいで。手を貸《か》しておくれ」
「おや、へいがあります」
「いいや、それは石の山だよ」
「いいえ、確《たし》かにへいです」
 親方は、一足はなれて、ほんとうにわたしの言ったとおりであるか、試《ため》してみようとした。かれは両手をさし延《の》べてへいにさわった。
「そうだ、へいだ」とかれはつぶやいた。「入口はどこだ。車の輪《わ》のあとのついた道を探《さが》してごらん」
 わたしは地べたに身をかがめて、へいの角《かど》の所まで残《のこ》らずさわってみたが、入口はわからなかった。そこでまたヴィタリスの立っている所までもどって、今度は向こうの側《がわ》をさわってみた。結果《けっか》は同じことであった。入口もなければ門もなかった。
「なにもありません」とわたしは言った。
 情《なさ》けないことになった。疑《うたが》いもなく親方は思いちがいをしていた。たぶんここには石切り場などはないのだ。ヴィタリスはしばらくゆめの中をたどっているように、ぼんやりつっ立っていた。カピはがまんができなくなってほえ始めた。
「もっと先を見ましょうか」とわたしは聞いた。
「いや石切り場にへいが建《た》ったのだ」
「へいが建った」
「そうだ、入口をふさいでしまったのだ。中へはいることはできなくなったのだ」
「へえ、じゃあ」
「どうするって。もうわからなくなった。ここで死ぬのさ」
「まあ親方……」
「そうだ。おまえは死にはしない。おまえはまだ若《わか》いのだから。さあ歩こう。まだ歩けるかい」
「おお、でもあなたは」
「いよいよ行けなくなったら、老《お》いぼれ馬《うま》のようにたおれるだけさ」
「どこへ行きましょう」
「パリへもどるのだ。巡査《じゅんさ》に出会ったら、警察《けいさつ》へ連《つ》れて行ってもらうのだ。わたしはそれをしたくなかったが、おまえをこごえ死にさせることはできない。さあ、おいで、ルミ。さあ、前へ進め、子どもたち、元気を出せ」
 わたしたちはもと来た道をまた引っ返した。何時であったかわたしはまるでわからない。なんでも何時間も何時間も長い長いあいだそれはのろのろと歩いた。きっと十二時か一時にもなったろう。空は相変《あいか》わらずどんよりしてすこしばかり星が出ていた。その出ていたすこしばかりの星もいつもよりはずっと小さいように思われて、風の勢《いきお》いは強くなるばかりであった。往来《おうらい》の家は戸閉《とじ》まりをしっかりしていた。そこに、夜着にくるまってねむっている人たちも、わたしたちが外でどんなに寒い目に会っているか、知っていたら、わたしたちのためにそのドアを開けてくれたろうと思われた。
 親方はただのろのろ歩いた。息がだんだんあらくなって、長い道をかけた人のようにせいせい言っていた。わたしが話しかけると、かれはだまっていてくれという合図をした。
 わたしたちはもう野原をぬけて、いまは町に近づいていた。そこここのへいとへいとの間にガス燈《とう》がちらちらしていた。親方は立ち止まったとき、かれがいよいよ力のつきたことをわたしは知った。
「一けんどこかのうちをたたきましょうか」とわたしはたずねた。
「いいや、入れてくれはしないよ。このへんに住んでいるのは植木屋だ。朝早く市場へみんな出かけるのだ。この時刻《じこく》にどうして起きてうちへ入れてくれ
前へ 次へ
全82ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
マロ エクトール・アンリ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング