こそはしなければならないと感じた。それにわたしは、どれほどかれを愛《あい》しているかを語りたい燃《も》えるような希望《きぼう》を、いや少なくとも、なにかかれのためにしてやりたい希望を持っていた。
「あなたはご病気なんでしょう」かれがまた立ち止まったとき、わたしは言った。
「どうもそうではないかと思うよ。とにかくわたしはひじょうにつかれている。この寒さがわたしの年を取ったからだにはひどくこたえる。わたしはいいねどこと炉《ろ》の前で夕飯《ゆうはん》を食べたい。だがそれはゆめだ。さあ、前へ進め、子どもたち」
前へ進め。わたしたちは町を後にした。わたしたちは郊外《こうがい》へ出ていた。もう往来《おうらい》の人も巡査《じゅんさ》も街燈《がいとう》も見えない。ただ窓明《まどあ》かりがそこここにちらちらして、頭の上には黒ずんだ青空に二、三点星が光っているだけであった。いよいよはげしくあらくふきまくる風が着物をからだに巻《ま》きつけた。幸いと向かい風ではなかったが、でもわたしの上着のそでは肩《かた》の所までぼろばろに破《やぶ》れていたから、そのすきから風はえんりょなくふきこんで、骨《ほね》まで通るような寒気が身にこたえた。
暗かったし、往来《おうらい》はしじゅうたがいちがいに入り組んでいたが、親方は案内《あんない》を知っている人のようにずんずん歩いた。それでわたしも迷《まよ》うことはないとしっかり信《しん》じて、ついて行った。するととつぜんかれは立ち止まった。
「おまえ、森が見えるかい」とかれはたずねた。
「そんなものは見えません」
「大きな黒いかたまりは見えないかい」
わたしは返事をするまえに四方を見回した。木も家も見えなかった。どこもかしこもがらんと打ち開いていた。風のうなるほかになんの物音も聞こえなかった。
「わたしがおまえだけに目が見えるといいのだがなあ。ほら、あちらを見てくれ」かれは右の手を前へさし延《の》べた。わたしはそっけなくなにも見えないとは言いかねて、返事をしなかったので、かれはまたよぼよぼ歩き出した。
二、三分だまったまま過《す》ぎた。そのときかれはもう一度立ち止まっては、また森が見えないかとたずねた。ばくぜんとした恐怖《きょうふ》に声をふるわせながら、わたしはなにも見えないと答えた。
「おまえこわいものだから目が落ち着かないのだ。もう一度よくご覧《らん》」
「ほんとうです。森なんか見えません」
「広い道もないかい」
「なんにも見えません」
「道をまちがえたかな」
わたしはなにも言えなかった。なぜならわたしはどこにいるのかもわからなかったし、どこへ行くのだかもわからなかったから。
「もう五分ばかり歩いてみよう。それでも森が見えなかったら、ここまで引っ返して来よう。ことによると道をまちがえたかもわからん」
わたしたちが道に迷《まよ》ったことがわかると、もうからだになんの力も残《のこ》らないように思われた。親方はわたしのうでを引《ひ》っ張《ぱ》った。
「さあ」
「ぼくはもう歩けません」
「いやはや、おまえはわたしがおまえをしょって行けると思うかい。わたしはすわったらもう二度と立ち上がることはできないし、そのまま寒さにこごえて死んでしまうだろうと思うからだ」
わたしはかれについて歩いた。
「道に深い車の輪《わ》のあとがついてはいないか」
「いいえ、なんにも」
「じゃあ引っ返さなきゃならない」
わたしたちは引っ返した。今度は風に向かうのである。それはむちのようにぴゅうと顔を打った。わたしの顔は火で焼《や》かれるように思われた。
「車の輪《わ》のあとを見たら言っておくれ。左のほうへ分かれる道をとって行かなければならない」と親方は力なく言った。「それが見えたら言っておくれ。そこの四つ角に円い頭のような形のいばらがある」
十五分ばかりわたしたちは風と争《あらそ》いながら歩み続《つづ》けた。しんとした夜の沈黙《ちんもく》の中でわたしたちの足音がかわいた固《かた》い土の上でさびしくひびいた。もうふみ出す力はほとんどなかったが、でも親方を引きずるようにしたのはわたしであった。どんなにわたしは左のほうを心配してはながめたろう。暗いかげの中でわたしはふと小さな赤い灯《ひ》を見つけた。
「ほら、ご覧《らん》なさい、明かりが」とわたしは指さしながら言った。
「どこに」
親方は見た。その明かりはほんのわずかの距離《きょり》にあったが、かれにはなにも見えなかった。わたしはかれの視力《しりょく》がだめになったことを知った。
「その明かりがなにになろう」とかれは言った。「それはだれかの仕事場の机《つくえ》にともっているランプか、死にかかっている病人のまくらもとの灯《ひ》だ。わたしたちはそこへ行って戸をたたくわけにはいかない。遠くいなかへ出
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