にちがいなかった。わたしはミリガン夫人とアーサを心から愛《あい》していた。
「ルミがわたしたちの所にいても、いいことばかりはないでしょう」とミリガン夫人《ふじん》は続《つづ》けた。
「この船にだって遊び半分ではいられません。ルミもやはりあなたと同じようにたくさん勉強をしなければなりません。とても青空の下で旅をして回るような自由な境涯《きょうがい》ではないでしょう」
「ああ、ぼくの思っていることがおわかりでしたら……」とわたしは言いかけた。
「ほらほらね、お母さま」とアーサが口を出した。
「ではわたしたちがこれからしなければならないことは」とミリガン夫人《ふじん》が言った。「この子の親方の承諾《しょうだく》を受けることです。わたしはまあ手紙をやってここへ来てもいようにたのんでみましょう。こちらからツールーズへは行かれないからね。わたしは汽車賃《きしゃちん》を送ってあげて、なぜこちらから汽車に乗って行かれないか、そのわけをよく書いてあげましょう。つまりこちらへ呼《よ》ぶことになるのだが、たぶん承知《しょうち》してくださることだろうと思うから、それで相談《そうだん》したうえで、親方がこちらの申し出を承知してくだされば、今度はあなたのご両親と相談することにしましょう。むろんだまっていることはできないからね」
この最後《さいご》のことばで、わたしの美しいゆめは破《やぶ》れた。
両親に相談《そうだん》する。そうしたらかれらはわたしが内証《ないしょう》にしようとしていることをすぐ言いたてるだろう。わたしが捨《す》て子《ご》だということを言いたてるだろう。
ああ捨《す》て子《ご》。そうなればアーサもミリガン夫人《ふじん》もわたしをきらうようになるだろう。
まあ自分の父親も母親も知らない子どもが、アーサの友だちであったか。
わたしはミリガン夫人の顔をまともにながめた。なんと言っていいか、わたしはわからなかった。かの女はびっくりしてわたしの顔を見た。わたしがどうしたのか、かの女はたずねようとしたが、わたしはそれに答えもできずにいた。たぶん親方が帰って来るという考えに気が転倒《てんとう》していると考えたらしく、かの女はそのうえしいては問わなかった。
幸いにじきねむる時間が来たので、アーサからいつまでもふしぎそうな目で見られずにすんだ。やっと心配しながら自分の部屋《へや》に一人|閉《と》じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて以来《いらい》初《はじ》めてのふゆかいな晩《ばん》であった。それはおそろしくふゆかいな、長い熱病《ねつびょう》をわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。
たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなればかれらはどうしたってほんとうのことは知らずにいよう。かれらは、わたしの捨《す》て子《ご》だということを知らずにすむだろう。素性《すじょう》を知られることについてのわたしの羞恥《しゅうち》と恐怖《きょうふ》があまりひどかったので、もうアーサ母子《おやこ》と別《わか》れても、しかたがない。ヴィタリスがなんでも自分といっしょに来いと主張《しゅちょう》することを希望《きぼう》し始めたくらいであった。そうなれば少なくともかれらはこののちわたしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。
それから三日たってミリガン夫人《ふじん》はヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。かれは夫人の文意をよくくんで、向こうから来てかの女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールを連《つ》れて、かれに会いに停車場《ていしゃじょう》まで行くことを許《ゆる》された。
その朝になると、犬たちはなにか変《か》わったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしはひじょうに興奮《こうふん》していた。きょうこそわたしの運命が決められる日であった。わたしに勇気《ゆうき》があったら、親方にたのんで捨《す》て子《ご》だということをミリガン夫人《ふじん》に言ってもらわないようにたのむことができたであろう。けれどもわたしはかれに対してすら『捨《す》て子《ご》』ということばを口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、ジョリクールは上着の下に入れて、停車場《ていしゃじょう》の片《かた》すみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目にはいらなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。かれらは主人のにおいをかぎつけた。
ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり見張《みは》りをゆるめていたので、かれらはぬけ出したのであった。ほえながらかれらは前へとび出した。わたしはかれらが親方にとびかかるのを見た。ほかの二ひきに比《くら》べてははげしくしかもしたたかにカピが、いきなり主人のうでにとびかかった。ゼルビノとドルスがその足にとびかかった。
親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両うでをわたしのからだに投げかけた。初《はじ》めてかれはわたしにキッスした。
「ああよく無事《ぶじ》でいてくれた」とかれはたびたび言った。
親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうに優《やさ》しくはなかった。わたしはそれに慣《な》れていなかった。それでわたしは感動して、思わずなみだが目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしはかれの顔をながめた。刑務所《けいむしょ》にはいっているまにかれはひじょうに年を取った。背中《せなか》も曲がったし、顔は青いし、くちびるに血の気《け》はなかった。
「ルミ、わたしは変《か》わったろう。なあ」とかれは言った。「刑務所《けいむしょ》はけっしてゆかいな所ではなかった。それに苦労《くろう》というものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来ればだいじょうぶだ。これからはよくなるだろう」
それから話の題を変《か》えてかれは言い続《つづ》けた。
「わたしの所へ手紙を寄《よ》こしたおくさんのことを話しておくれ。どうしてそのおくさんと知り合いになったのだ」
わたしはここで、どうして白鳥号に乗って堀割《ほりわり》をこいでいたミリガン夫人《ふじん》とアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これから別《わか》れてミリガン夫人《ふじん》の所にいたいと言いだす気にはなれなかった。
わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしはかの女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。
「そのおくさんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルにはいったときにかれは言った。
「ええ、ぼくがいまおくさんの部屋《へや》に案内《あんない》しましょう」とわたしは言った。
「それにはおよばないよ」とかれは答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちといっしょにわたしを待っておいで」
わたしは、いつでもかれに従順《じゅうじゅん》であったけれども、この場合はかれといっしょにミリガン夫人《ふじん》の部屋に行くことが、わたしとしてむろん正当でもあり自然《しぜん》なことだと思っていた。けれども手まねでかれがわたしのくちびるに出かかっていることばをおさえると、わたしはいやいや犬やさるといっしょに下に残《のこ》っていなければならなかった。
どうしてかれはミリガン夫人と話をするのにわたしのいることを好《この》まなかったか。わたしはこの質問《しつもん》を心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ明快《めいかい》な答えが得《え》られずに考えこんでいたときにかれはもどって来た。
「行っておくさんに、さようならを言っておいで」とかれはことば短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと十分のうちにたつのだから」
わたしはかみなりに打たれたような気がした。
「それ」とかれは言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」
かれはまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。機械的《きかいてき》にわたしは服従《ふくじゅう》して、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。
「あなたはおくさんになんとお言いに……」二足三足行きかけてわたしは問いかけた。
「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは必要《ひつよう》なのだ。従《したが》ってわたしはおまえに対するわたしの権利《けんり》を捨《す》てることはできませんと言ったのさ。行って来い。いとまごいがすんだらすぐ帰れ……」
わたしは自分が捨《す》て子《ご》だったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの素性《すじょう》を話したからだとばかり思っていた。
ミリガン夫人《ふじん》の部屋《へや》にはいると、アーサがなみだを流している。そのそばに母の夫人が寄《よ》りそっているところを見た。
「ルミ、きみ行ってはいやだよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」とかれはすすり泣《な》きをした。
わたしはものが言えなかった。ミリガン夫人《ふじん》がわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。
「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを承知《しょうち》してくださいませんでした」とミリガン夫人《ふじん》は、いかにも悲しそうな声で言った。
「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。
「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたがだいじで手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる……あの人はああいう身分の人のようではない、どうしてりっぱな口のきき方をなさいました。お断《ことわ》りになる理由としてあの人の言われたのは――そう、こうです、――わたしはあの子を愛《あい》している、あの子もわたしを愛している。わたしがあれに授《さず》けている世間の修業《しゅぎょう》は、あれにとって、あなたがたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それはほんとうだ。なるほどあなたはあれのちえを養《やしな》ってはくださるだろう、だがあれの人格《じんかく》は作れません。それを作ることのできるのは人生の艱難《かんなん》ばかりです。あれはあなたの子にはなれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって居心地《いごこち》がよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから――とこうお言いになるのですよ」
「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサはさけんだ。
「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人に従《したが》うほかはありません。この子の両親が親方さんにお金で貸《か》したのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」
「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしはさけんだ。
「それはどういうわけです」
「いいえ、どうかよしてください」
「でもそのほかにしかたがないんですもの」
「ああ、どうぞよしてください」
ミリガン夫人《ふじん》が両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がく
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