んべんしてやろうという意を示《しめ》した。
 甲板《かんぱん》をそうじしていた男が、気軽に板をわたしてくれたので、わたしは部下を連《つ》れて野原へ出た。
 犬とかけっこしたり、ジョリクールをからかったり、ほりをとんだり、木登りをしたりして遊んでいるうちに時間がたった。帰ってみると、馬ははこやなぎ[#「はこやなぎ」に傍点]の木につながれて、すっかり仕度ができていて、小舟《こぶね》はいつでも出発するようになっていた。
 わたしたちがみんな船の上に乗ってしまうと、まもなく船をつないだ大づなは解《と》かれて、船頭はかじを、御者《ぎょしゃ》は手《た》づなを取った。引きづなの滑車《かっしゃ》がぎいぎい鳴って、馬は引き船の道をカッパカッパ歩きだした。
 これでも動いているかと思うはど静《しず》かに船は水の上をすべって行った。そこに聞こえるものは小鳥の歌と、船に当たる水の音、それから馬の首につけたすずのチャランチャランだけであった。
 所どころ水はこい緑色に見えてたいへん深いようであった。そうかと思うと水晶《すいしょう》のようにすみきっていて、水の底《そこ》できらきら光る小石だの、ビロードのような水草をすかして見ることができた。
 わたしが水の中をじっとのぞきこんでいると、だれかがわたしの名前を呼《よ》んだ。それはアーサであった。かれは例《れい》の板に乗せられて運び出されていた。
「きみ、よくねられたかい、野原にねむるよりも」とかれはたずねた。わたしは半分、ミリガン夫人《ふじん》にあいさつするように、ていねいによくねむられたことを話した。
「犬は」アーサが聞いた。
 わたしはかれらを呼《よ》んだ。かれらはジョリクールといっしょにかけて来た。このさるはいつも芝居《しばい》をやらされると思うときするように、しかめっ面《つら》をしていた。
 ミリガン夫人《ふじん》はむすこを日かげに置《お》いて、自分もそのそばにすわった。
「それでは、あちらへ犬とさるを連《つ》れて行ってください。わたしたちは課業《かぎょう》がありますから」とかの女は言った。
 わたしは連中《れんじゅう》を連《つ》れてへさきのほうへ退《しりぞ》いた。
 あの気のどくな病人の子どもに、どんな課業《かぎょう》ができるのだろう。
 わたしはかれの母親が手に本を持って、むすこに課業を授《さずけ》けているのを見た。
 かれはそれを覚《おぼ》えるのがなかなか困難《こんなん》であるらしく見えた。しじゅう母親は優《やさ》しく責《せ》めていたが、同時になかなか手ごわかった。
「いいえ」とかの女は最後《さいご》に言った。「アーサ、あなたはまるで覚《おぼ》えていません」
「ぼく、できません。お母さま、ぼく、ほんとにできないんです」とかれは泣《な》くように、言った。「ぼく病気なんです」
「あなたの頭は病気ではありません。アーサ、病人だからといって、だんだんばかになるような子をわたしは好《す》きません」
 これはずいぶん残酷《ざんこく》なようにわたしには思われた。けれどかの女はあくまで優《やさ》しい親切な調子で言った。
「なぜ、あなたはわたしにこんな情《なさ》けない思いをさせるでしょう。あなたが習いたがらないのが、どんなにわたしには悲しいかわかるでしょう」
「ぼく、できません、お母さま、ぼくできないんです」こう言ってかれは泣《な》きだした。
 けれどもミリガン夫人《ふじん》は子どものなみだに負かされはしなかった。そのくせかの女はひじょうに感動して、ますます悲しそうになっていた。
「わたしもけさあなたをルミや犬たちと遊ばせてあげたいのだけれど、すっかりお話を覚《おぼ》えるまでは遊ばせることはできません」こう言ってかの女は本をアーサにわたして、一人|置《お》き去りにしたまま向こうへ行った。
 わたしの立っていた所までかれの泣《な》き声《ごえ》が聞こえた。
 あれほどまでに愛《あい》しているらしい母親がどうしてこのかわいそうな子どもにこれほど厳格《げんかく》になれるのであろう。アーサの覚《おぼ》えられないのは病気のせいなのだ。かの女は優《やさ》しいことば一つかけないではいってしまうのであろうか。
 しばらくたってかの女はもどって来た。
「もう一度二人でやってみましょうね」とかの女は優しく言った。
 かの女は子どものわきにこしをかけて、本を手に取って、『おおかみと小ひつじ』というお話を読み始めた。アーサはその読み声について文句《もんく》をくり返した。
 三度|初《はじ》めからしまいまで読み返して、それから本をアーサに返して、あとは一人で習うように言いつけて、船の中にはいってしまった。
 わたしはアーサのくちびるの動くのを見た。
 かれはたしかにいっしょうけんめい勉強していた。
 けれどもまもなく目を本からはなした。かれのくちびるは動かなくなった。かれの目はきょろきょろとあてもなく迷《まよ》ったが、本にはもどって来なかった。
 ふとかれの目はわたしの目を見つけた。
 わたしは課業《かぎょう》を続《つづ》けてやるようにかれに目くばせした。かれは注意を感謝《かんしゃ》するように微笑《びしょう》した。そしてまた本を読み始めた。けれどもまえのようにやはりかれは考えを一つに集めることができなかった。かれの目は川のこちらの岸から向こう岸へと迷《まよ》い始めた。ちょうどそのとき一|羽《わ》のかわせみが矢のように早く船の上をかすめて、青い光をひらめかしながら飛んだ。
 アーサは頭を上げてその行くえを見送った。鳥が行ってしまうと、かれはわたしのほうをながめた。
「ぼく、これが覚《おぼ》えられない」とかれは言った。「でもぼく、覚《おぼ》えたいんだ」
 わたしはかれのそばへ行った。
「この話はそんなにむずかしくはありませんよ」とわたしは言った。
「うん、むずかしい。……たいへんむずかしいんだ」
「ぼくにはずいぶん易《やさ》しいと思えますよ。あなたのお母さまが読んでいらっしゃるときに聞いていて、ぼくはたいてい覚《おぼ》えました」
 かれはそれを信《しん》じないように微笑《びしょう》した。
「言ってみましょうか」
「できるもんか」
「やってみましょうか。本を持っていらっしゃい」
 かれはまた本を取り上げた。わたしはその話を暗唱《あんしょう》し始めた。わたしはほとんど完全《かんぜん》に覚《おぼ》えていた。
「やあきみ、知っているの」
「そんなによくは知りません。けれどこのつぎのときまでには、一つもちがえずに言えるでしょう」
「どうして覚《おぼ》えたの」
「あなたのお母さまが読んでいらっしゃるあいだ、ぼくは聞いていました。ただいっしょうけんめいに、そこらの物を見向したりなんぞせずに、聞いていたのです」
 かれは顔を赤くした、そして目をそらした。
「ぼくもきみのようにやってみよう」とかれは言った。「けれど一々のことばをどうしてそう覚《おぼ》えたか、言って聞かしてくれたまえ」
 わたしはそれをどう説明《せつめい》していいかわからなかった。そんなことを考えてみたことはなかった。けれどやれるだけは説明してみた。
「このお話はなんの話でしょう」とわたしは言った。「ひつじのことでしょう。ねえ、だからなにより先にぼくはひつじのことを考えました。それからひつじはなにをしているか考えます。『多くのひつじは安全なおりの中で住んでいました』というのだから、ひつじがおりの中で安心して転《ころ》がってねむっているところが見えてきます。そういうふうに目にうかべると忘《わす》れません」
「そうだそうだ」とかれは言った。「ぼくは見えるよ。黒いひつじだの、白いひつじだの、おりも、格子《こうし》も見える」
「ひつじの番をするのはなんですか」
「犬さ」
「ひつじがおりの中にいて番をしないですむとき、犬はなにをするでしょう」
「なんにも仕事はない」
「では犬はねむってもいいでしょう。ですから、『犬はねむっていました』と言うのです」
「そうだ。わけはない」
「ええ、わけはないのですとも、今度はほかのことに移《うつ》ります。では犬といっしょに番をするのはだれです」
「ひつじ飼《か》いさ」
「その犬やひつじ飼いは、ひつじがだいじょうぶだと思うとなにをしていたでしょう」
「犬は、ねむっていたのさ、ひつじ飼いは、遠くのほうへ行って、ほかのひつじ飼いたちとふえをふいて遊んでいた」
「あなたはそれが見えますか」
「ええ」
「どこにいます」
「にれの木のかげに」
「一人ですか」
「いいえ、近所のひつじ飼《か》いといっしょに」
「そらひつじやおりや犬やひつじ飼いのことを考えてごらんなさい。それができれば、このお話の初《はじ》めのほうは暗唱《あんしょう》ができるでしょう」
「ええ」
「やってごらんなさい」
「多くのひつじは安全なおりの中におりましたから、犬はみなねむっていました。ひつじ飼いも大きなにれの木のかげに、近所のひつじ飼いたちとふえをふいて遊んでいました。――覚《おぼ》えていた、覚《おぼ》えていた、まちがいはなかった」
 アーサは両手を打ってさけんだ。
「あともそういうふうにして覚えたらどうです」
「そうだな、きみといっしょにやればきっと覚えられる。ああ、お母さまがどんなに喜《よろこ》ぶだろう」
 アーサはやがてお話|残《のこ》らずを心の目にうかべるようになった。わたしはできるだけ一々の細かい話を説明《せつめい》した。かれがすっかり興味《きょうみ》を持ってきたときに、わたしたちはいっしょに文句《もんく》をさらった。そして十五分あとでは、かれはすっかり卒業《そつぎょう》いていた。
 やがて母親は出て来たが、わたしたちがいっしょにいるのでふきげんらしかった。かの女はわたしたちが遊んでいたと思った。けれどアーサはかの女に口をきかせるいとまをあたえなかった。
「ぼく、覚《おぼえ》えました」とかれはさけんだ。「ルミが教えてくれました」
 ミリガン夫人《ふじん》は、びっくりしてわたしの顔を見た。けれどかの女がわけを問うさきに、アーサは『おおかみと小ひつじ』のお話を暗唱《あんしょう》しだした。わたしはミリガン夫人の顔を見た。かの女の美しい顔は微笑《びしょう》にほころびた。そのうちわたしはかの女の目になみだがうかんだと思った。けれどかの女はあわててむすこのほうをのぞきこんで、そのからだに両うでをかけた。かの女が泣《な》いていたかどうか確《たし》かではなかった。
「ことばには意味がないのだから、目に見える事がらを考えなければいけないのです。ルミはぼくにふえをふいているひつじ飼《か》いだの、犬だのひつじだの、それからおおかみだのを考えさせてくれました。おまけにひつじ飼いのふいていた節《ふし》まで聞こえるようになりました。お母さま、ぼく、歌を歌ってみましょうか」
 こう言ってかれは、イギリス語の悲しいような歌を歌った。
 今度こそミリガン夫人《ふじん》はほんとうに泣《な》いていた。なぜならかの女が席《せき》を立ったとき、わたしはアーサのほおがかの女のなみだでぬれているのを見た。そのとき夫人《ふじん》はわたしのそばに寄《よ》って、わたしの手を自分の手の中におさえて、優《やさ》しくしめつけた。
「あなたはいい子です」とかの女は言った。
 わたしがこのちょいとした出来事を長ながと書くにはわけがある。ゆうべまではわたしも宿《やど》なしのこぞうで、一座《いちざ》の犬やさるたちを連《つ》れて、船のそばへやって来て、病人の子どもをなぐさめるだけの者であった。けれどこの課業《かぎょう》のことから、わたしは犬やさるから引きはなされて、病人の子どもの相手《あいて》になり、ほとんど友だちになったのである。
 もう一つ言っておかなければならないことがある。それはずっとあとで知ったことであるが、ミリガン夫人《ふじん》は実際《じっさい》このむすこの物覚《ものおぼ》えの悪いこと、もっと正しく言えばなにも物を覚えないことを知って、ふさぎきっていた。病人の子ではあっても、勉強はさせておきたいと夫人は思った。それには病気が長びくだろうから
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