まま帰って来た。
「ゼルビノはどうした」
カピはおどおどした様子で、平伏《へいふく》した。わたしはかれのかたっぽの耳から血の出ているのを見た。わたしはそれで様子をさとった。ゼルビノはこの憲兵《けんぺい》に戦《たたか》いをしかけてきたのである。わたしはカピがそうして、いやいやわたしの命令《めいれい》に従《したが》いながらも、ゼルビノとの格闘《かくとう》にわざと負けてやったことがわかった。そしてそのため自分もやはりしかられるものと覚悟《かくご》しているらしく思われた。
わたしはかれをしかることができなかった。わたしはしかたがないから、ゼルビノが自分から帰って来るときを待つことにした。わたしはかれがおそかれ早かれ後悔《こうかい》して帰って来て、刑罰《けいばつ》を受けるだろうと思っていた。
わたしは一本の木の下に、手足をふみのばして横《よこ》になった。ジョリクールはしっかりとうでにだいていた。それはこのさるまでがゼルビノと仲間《なかま》になる気を起こすといけないと思ったからであった。ドルスとカピはわたしの足の下でねむっていた。時間がたった。ゼルビノは出て来なかった。とうとうわたしもうとうととねむりこけた。
四、五時間たってわたしは目を覚ました。日かげでもう時刻のよほどたったことがわかったが、それは日かげを見て知るまでもなかった。わたしの胃ぶくろは一きれのパンを食べてからもう久《ひさ》しい時間のたつことをわめきたてていた。それに二ひきの犬とジョリクールの顔つきだけでも、かれらの飢《う》えきっていることはわかった。カピとドルスは情《なさ》けない目つきをして、じっとわたしを見つめた。ジョリクールはしかめっ面《つら》をしていた。
でもやはりゼルビノは帰ってはいなかった。
わたしはかれを呼《よ》びたてたり、口ぶえをふいたりしたけれどもむだであった。たぶんごちそうをせしめたので、すっかり腹《はら》がふくれて、どこかのやぶの中に転《ころ》がって、ゆっくり消化させているのであろう。
やっかいなことになってきた。わたしがここを立ち去れば、ゼルビノはわたしたちを見つけることができないから、そのまま行くえ知れずになってしまう。かといってここにこのままいては、少しでも食べ物を買うお金をもうける機会《きかい》がまるでなかった。
わたしたちの空腹《くうふく》はいよいよやりきれなくなってきた。犬たちは哀願《あいがん》するような目つきをたえずわたしに向けた。そしてジョリクールはおなかをさすって、おこって、きゃっきゃっとさけんでいた。
それでもゼルビノはまだ帰って来なかった。もう一度わたしはカピをやって、なまくらものの行くえを探《さが》させた。けれども三十分たってから、やはりカピだけ独《ひと》りぼんやり帰って来た。
どうしたらいいであろう。
ゼルビノは罪《つみ》を犯《おか》したが、またかれの過失《かしつ》のためにわたしたちはこんなひどい目に会わされることになったのであるが、かれをふり捨《す》てることはできなかった。三びきの犬を満足《まんぞく》に連《つ》れて帰らなかったら、親方はなんと言うであろう。それになんといっても、わたしはあのいたずら者のゼルビノをかわいがっていた。
わたしは晩《ばん》がたまで待つ決心をした。けれどなにもせずにいることはできるものではなかった。わたしたちはなにかしていればきっとこれほどひどい空腹《くうふく》がこたえないであろうと思った。
わたしはなにか気をまぎらすことを考え出したなら、さし当たりこれほどひもじい思いを忘《わす》れるかもしれない。
なにをしたらよかろう。
わたしはこの問題をいろいろ考え回した。そのときわたしが思い出したのは、ヴィタリス親方がいつか言ったことに、軍隊《ぐんたい》が長い行軍《こうぐん》で疲労《ひろう》しきると、楽隊《がくたい》がそれはゆかいな曲を演奏《えんそう》する、それで兵隊《へいたい》の疲労を忘《わす》れさせるようにするというのであった。
そうだ。わたしがなにかゆかいな曲をハープでひいたら、きっと空腹《くうふく》を忘れることができるかもしれない。わたしたちはみんなひどく弱りきっている。でもなにかゆかいな曲をひいたら、かわいそうな二ひきの犬たちも、ジョリクールといっしょにおどりだして、時間が早く過《す》ぎるかもしれない。
わたしは二本の木によせかけておいた楽器《がっき》を取り上げて、堀割《ほりわり》のほうに背中《せなか》を向けながら、動物たちの列を作ってならばせ、ダンス曲をひき始めた。
初《はじ》めのうちは、犬もさるもダンスをする気にもなれないらしかった。かれらの欲望《よくぼう》は食べ物のほかになかった。そのいじらしい様子を見ると、わたしの胸《むね》は痛《いた》んだ。けれどもかわいそうに、かれらも空腹《くうふく》を忘《わす》れなければならなかった。わたしはいよいよ調子を高く早くとひいた。すると少しずつだんだんに、音楽がその偉力《いりょく》を現《あらわ》してきた。かれらはおどりだした。わたしはひき続《つづ》けた。
「うまい」――ふとわたしはすみきった子どもの声でこうさけぶのを聞いた。その声はすぐ後ろから聞こえた。わたしはあわててふり向いた。
一せきの遊船《ゆうせん》が堀割《ほりわり》の中に止まっていた。その小舟《こぶね》を引《ひ》っ張《ぱ》っている二ひきの馬は、向こう岸に休んでいた。それはきみょうな小舟であった。わたしはまだこんなふうな船を見たことはなかった。
それは堀割にうかんでいるふつうの船に比《くら》べて、ずっとたけが短かった。そして水面からわずか高い甲板《かんぱん》の上には、ガラスしょうじをたてきった船室があり、その前にはきれいなろうかがあって、つたの葉でおおわれていた。
そこには二人、人がいた。一人はまだ若《わか》い貴婦人《きふじん》で、美しい、そのくせ悲しそうな顔をしていた。もう一人はわたしぐらいの年ごろの男の子で、これはあお向けにねているらしかった。
「うまい」と声をかけたのは、あきらかにこの子どもであった。
わたしはかれらを見つけて、一度はたいへんびっくりしたが、落ち着くと、わたしはぼうしを取って、かれらの賞賛《しょうさん》に感謝《かんしゃ》の意を表《ひょう》した。
「あなたはお楽しみにやっておいでなのですか」と、貴婦人《きふじん》は外国なまりのあるフランス語で言った。
「わたしは犬をしこんでいるのです。それに……自分の気晴らしにも」
子どもはなにか言った。婦人はそのほうにのぞきこんだ。
「あなた、まだやってもらえますか」と、そのとき貴婦人《きふじん》はこちらを向いて言った。
なにかやってくれるか。やらなくってどうするものか。こういうところへ来てくれたお客のために、どうしてやらずにいられよう。わたしはそれを二度と言われるまでも待たなかった。
「ダンスにしましょうか。喜劇《きげき》にしましょうか」とわたしは聞いた。
「ああ、喜劇だ、喜劇だ」と子どもがさけんだ。
けれども貴婦人《きふじん》は口をはさんで、「まあ先にダンスを」と言った。
「ダンスはだって短すぎるもの」と子どもは言った。
「お客さまのお望《のぞ》みとございましたら、ダンスのあとでちがった番組をいろいろとりかえてごらんにいれましょう」
これはうちの親方の使う口上《こうじょう》の一つであった。わたしはなるべくかれと同じようなしかつめらしい言い方でやろうと努《つと》めた。だがなおよく考えると、喜劇《きげき》を所望《しょもう》してくれなかったことは結局《けっきょく》ありがたかった。なぜといって、どうそれをやるかくふうがつかなかった。ゼルビノという役者が一|枚《まい》足りないばかりではない、芝居《しばい》をするには衣装《いしょう》も道具もなかった。
とにかくわたしはハープを取り上げて、まずワルツの第一|節《せつ》をひいた。カピは前足でドルスのこしをだいて、じょうずに拍子《ひょうし》を取りながらおどり回った。つぎにジョリクールが一人でおどって、それからそれとわたしたちは順々《じゅんじゅん》に番組を進めていった。もう少しもくたびれたとは思わなかった。かわいそうな動物どもは、やがて昼飯《ひるめし》の報酬《ほうしゅう》の出ることを知って、いっしょうけんめいにやった。わたしもそのとおりであった。
するととつぜん、みんながいっしょになってダンスをしている最中《さいちゅう》に、ゼルビノがやぶのかげから出て来た。そして仲間《なかま》がそのそばを通ると、かれはずうずうしくもその仲間に割りこんで来た。
ハープをひきひき役者たちの監督《かんとく》をしながら、わたしはときどき子どものほうを見た。かれはわたしたちの演技《えんぎ》にひじょうなゆかいを感じているらしく見えたが、からだを少しも動かさなかった。寝台《ねだい》の上にあお向いたまま、ただ両手を動かして拍手《はくしゅ》かっさいした。半身不随《はんしんふずい》なのかしら、板の上に張《は》りつけられたように見えた。
いつのまにか風で船が岸にふきつけられていたので、いまは子どもをはっきり見ることができた。かれは金茶色の髪《かみ》の毛《け》をしていた。顔色は青白くて、すきとおった皮膚《ひふ》のもとに額《ひたい》の青筋《あおすじ》すら見えるほどであった。その顔つきには病人の子どもらしい、おとなしやかな、悲しそうな表情《ひょうじょう》があった。
「あなたがたのお芝居《しばい》のさじき料《りょう》がいかほどですね」と、貴婦人《きふじん》はたずねた。
「おなぐさみに相応《そうおう》した代《だい》だけいただきます」
「じゃあ、お母さま、たんとおやりなさい」と子どもが言った。かれはそのうえなにかわたしにわからないことばでつけ加《くわ》えていた。すると貴婦人《きふじん》は、
「アーサがお仲間《なかま》の役者たちをそばで見たいと言うのですよ」と言った。
わたしはカピに目くはせをした。大喜《おおよろこ》びでかれは船の中へとびこんで行った。
「それから、ほかのは」とアーサと呼《よ》ばれたこの子どもはさけんだ。
ゼルビノとドルスがカピの例《れい》にならった。
「それからおさるは」
ジョリクールもわけなくとびこむことができたろう。でもわたしは安心がならなかった。一度船に乗ったら、きっとなにか貴婦人《きふじん》の気にいらないような悪さをするかもしれなかった。
「おさるは気があらいの」と貴婦人はたずねた。
「いいえ、そうではありませんが、なかなか言うことを聞きませんから、失礼《しつれい》でもあるといけないと思います」
「おや、それではあなた、連《つ》れておいでなさい」
こう言って貴婦人《きふじん》はかじのほうに立っていた男に合図をした。この人は出て来て、へさきから岸に板をわたした。
肩《かた》にハープをかけて、ジョリクールをうでにだいたまま、わたしは板をわたった。
「おさるだ。おさるだ」とアーサはさけんだ。その子どもを貴婦人《きふじん》はアーサと呼《よ》んでいた。
わたしはかれのそばへ寄って、かれがジョリクールをなでたりさすったりしているとき、わたしは注意してその様子を見た。実際《じっさい》にかれは一|枚《まい》の板に皮でからだを結《むす》びつけられていた。
「あなた、お父さんはあるの」と貴婦人《きふじん》はたずねた。
「いえ、いまは独《ひと》りぼっちです」
「いつまで」
「二か月のあいだ」
「二か月ですって、まあかわいそうに、あなたぐらいの年ごろに、どうして独りぼっち置《お》き去りにされるようなことになったの」
「そんな回り合わせになったのです」
「あなたの親方さんはふた月のあいだにたんとお金を持って帰れと言いつけたのではないのですか。そうでしょう」
「いいえ、おくさん、親方はわたしになにも言いつけはしません。ただい一座《いちざ》ののものといっしょに、そのあいだ食べてゆかれさえすればそれでいいんです」
「それで、どれだけお金が取れましたか」
わたしは答えようとしてちゅうちょ
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