ピはさっそく前足でゼルビノをたたいた。それはいかにも二ひきの犬の間に言い合いが始まっているように見えた。言い合いというようなことばを犬に使うのは少し無理《むり》だと言うかもしれないが、動物だってたしかにその仲間《なかま》に通用する特別《とくべつ》なことばがあった。犬だけで言えば、かれらは話すことを知っているだけではない、読むことも知っていた。かれらが鼻を高く空に向けたり、顔を下げて地べたをかいだり、やぶや石の上をかぎ回ったりするところをご覧《らん》なさい。ふとかれらはとある草むらの前で立ち止まる。またはかべの前で立ち止まって、しばらくはじっと目をすえている。わたしたちが見てはその上になにもないが、犬はわたしたちの理解《りかい》しないふしぎな文字で書かれた、いろいろの変わったことをそこに読み分けるのである。
カピがゼルビノに言ったこともわたしにはわからなかった。なぜと言うに、犬には人間のことばがわかっても、人間はかれらのことばを理解《りかい》しないのだ。わたしがただ見たところでは、ゼルビノは道理に耳をかたむけることをこばんだ。なんでも三スーのお金をすぐに使ってしまえと言い張《は》ったようであった。カピは腹《はら》を立てて歯をむき出すと、少しおくびょう者のゼルビノはすごすごだまってしまった。だまるということばにも少し説明《せつめい》が要《い》るが、ここではころりと横になることを言うのである。
そこで残《のこ》ったのは今夜の宿《やど》の問題だけだ。
時候《じこう》はよし、暖《あたた》かい、いい天気であった。だから青天井《あおてんじょう》の下にねむることはさしてむずかしいことではなかった。ただこのへんに悪いおおかみでもいるようなら、それをさけるようにすればよかった。おおかみよりもおそろしい農林監察官《のうりんかんさつかん》からさけることもさらに必要《ひつよう》であった。
わたしたちは白い道の上をずんずんまっすぐに進んで行った。山のはしに落ちかけた赤い夕日の最後《さいご》の光が空から消えるころまで、宿《やど》を求《もと》めて歩き続《つづ》けたが、まだ見つからなかった。
もう善悪《ぜんあく》なしに、どうでもとまらなければならなかった。やっと林の間に出た。そこここに大きな花《か》こう岩《がん》が転《ころ》がっていた。この場所はずいぶんあれたさびしい所であったが、それよりいい場所は見つからなかった。それに花こう岩の中にはいってねむれば、しめっぽい夜風を防《ふせ》ぐたしにもなろうと思った。ここでわたしたちというのは、さるのジョリクールとわたし自身のことを言うので、犬たちは外でねむったところでかぜをひく気づかいもなかった。わたしは自分のからだをだいじにしなければならなかった。わたしのしょっている責任《せきにん》は重かった。わたしが病気になったらわたしたちみんなどうなるだろう。またわたしがジョリクールの看病《かんびょう》をしなければならないようだったら、今度はわたしがどうなるだろう。
わたしたちは石の間にほら穴《あな》のような所を見つけた。そこにはまつ[#「まつ」に傍点]の落ち葉がたまっていた。これで、上には風を防《ふせ》ぐ屋根があり、下にはしいてねるふとんができた。これはひじょうに具合がよかった。足りないのは食べ物ばかりであった。わたしはおなかのすいていることを考えまいと努《つと》めた。ことわざにも言うではないか、『ねむるのは食べるのだ』と。
いよいよ横になるまえに、わたしはカピに張《は》り番《ばん》をたのむと言った。するとこの忠実《ちゅうじつ》な犬はわたしたちといっしょにまつ[#「まつ」に傍点]葉の上でねむろうとはしないで、わたしの野営地《やえいち》の入口に、歩哨《ほしょう》のように横になっていた。わたしはカピが番をしてくれればだれも案内《あんない》なしに近づけないと思ったから、落ち着いてねむることができた。
でもこれだけは心配はなかったが、すぐにはねむりつけなかった。ジョリクールはわたしの上着の中にくるまって、そばでぐっすりねむっていた。ゼルビノとドルスは、わたしの足もとでからだをのばしていた。けれどもわたしの心配はからだのつかれよりも大きかった。
この旅行の第一日は悪かった。あくる日はどんなであろう。わたしは腹《はら》が減《へ》ったし、のどがかわいていた。それでいてたった三スーしか持っていなかった。あしたいくらかでももうけなかったら、どうしてみんなに食べ物を買ってやることができよう。それに口輪《くちわ》はどうしよう。これから歌を歌う許可《きょか》は、いったいどうしたらいいだろう。許《ゆる》してくれるだろうか。さもないとわたしたちはみんな、やぶの中でおなかが減《へ》って死んでしまうだろう。
こういうみじめな、あわれっぽい疑問《ぎもん》を心の中でくり返しくり返しするうちに、わたしは暗い空の上にかがやいている星を見た。そよとの風もなかった。どこもかしこもしんとしていた。木の葉のそよぐ音もしない。鳥の鳴く声もしない。街道《かいどう》を車のとろとろと通る音もしない。目の届《とど》く限《かぎ》りは青白い空が広がっていた。わたしたちは独《ひと》りぼっちであった。世の中から捨《す》てられていた。
なみだは目の中にあふれた。バルブレンのおっかあはどうしたろう。気のどくなヴィタリスは。
わたしはうつぶしになって、顔を両手でかくして、しくしく泣《な》いていた。するとふと、かすかな息が髪《かみ》の毛《け》にふれるように思った。わたしはあわててふり向いた。そのひょうしに大きなやわらかな舌《した》がなみだにあふれたわたしのほおをなめた。それはカピが、わたしの泣き声を聞きつけて、あのわたしの流浪《るろう》の初《はじ》めての日にしてくれたように、今度もわたしをなぐさめに来てくれたのである。
両手でわたしはかれの首をおさえて、そのしめった鼻にキッスした。かれは二、三度おし殺《ころ》したような悲しそうな鼻声を出した。それがわたしといっしょに泣《な》いてくれるもののように思われた。
わたしはねむって目が覚《さ》めてみると、もうすっかり明るくなっていた。カピはわたしの前にすわったままじっとわたしを見ていた。小鳥が林の中で歌を歌っていた。遠方のお寺で朝の祈祷《きとう》のかねが鳴っていた。太陽はもう空の上に高く上って、つかれた心とからだをなぐさめる光を心持ちよく投げかけていた。
わたしたちはかねの音《ね》を目当てに歩き出した。そこには村があって、パン屋もきっとあるにそういなかった。昼食も夕食もなしにねどこにはいれば、だれにだって空腹《くうふく》が『おはよう』を言いに来る。わたしは思い切って、三スーを使ってしまう決心をした。そのあとではどうなるか、それはそのときのことにしよう。
村に着くと、パン屋がどこだと聞く必要《ひつよう》もなかった。わたしたちの鼻がすぐにその店に連《つ》れて行ってくれた。においをかぎつけるわたしの感覚《かんかく》は、もう犬に負けずにするどかった。遠方からわたしは温かいパンの、うまそうなにおいをかぎつけた。
一斤五スーするパンを三スーではたんとは買えなかった。わたしたちはてんでんに、ほんの小さなきれを分け合った。それで朝飯《あさめし》もあっけなくすんでしまった。
わたしたちはきょうこそいくらかでももうけなければならなかった。わたしは村の中を歩いて、どこか芝居《しばい》につごうのいい場所を見つけようとした。それに村の人びとの顔色を見て、敵《てき》か味方か探《さぐ》ろうとした。
わたしの考えはすぐに芝居を始めようというのではなかった。それには時間があまり早すぎた。けれどいい場所が見つかれば、昼ごろ帰って来て、わたしたちの運命を決する機会《きかい》をとらえるつもりであった。
わたしがこの考えに心をうばわれていると、ふとだれか後ろからとんきょうな声を上げる者があった。あわててわたしがふり向くと、ゼルビノがわたしのほうへ向かってかけて来る。そのあとから一人のおばあさんが追っかけて来るのを見た。もうすぐ何事が起こったかということはわかった。わたしがほかへ気を取られているすきをねらって、ゼルビノは一けんの家にかけこんで、肉を一きれぬすみだしたのであった。かれはえものを歯の間にくわえたまま、にげ出して来たのであった。
「どろぼう、どろぼう」とおばあさんはさけんだ。「そいつをつかまえておくれ。そいつらみんなつかまえておくれ」
おばあさんのこう言うのを聞いて、わたしはとにかく自分にも罪《つみ》がある。いやすくなくともゼルビノの犯罪《はんざい》に責任《せきにん》があると感じた。そこでわたしはかけ出した。もしおばあさんがぬすまれた肉の代価《だいか》を請求《せいきゅう》じたら、なんと言うことができよう。どうして金をはらうことができよう。それでわたしたちがつかまえられれば、きっと刑務所《けいむしょ》に入れられるだろう。
わたしがにげ出して行くのを見て、ドルスとカピもさっそくわたしの例《れい》にならった。かれらはわたしのかかとについて走った。ジョリクールはわたしの肩《かた》に乗ったまま、落ちまいとしてしっかり首にかじりついた。
だれかほかの者もさけんでいた。待て、どろぼう……そしてほかの人たちも仲間《なかま》になって追っかけていた。けれどもわたしたちはどんどんかけた。恐怖《きょうふ》がわたしたちの速力《そくりょく》を進めた。わたしはドルスがこんなに早く走るのを見たことがなかった。かの女の足はほとんど地べたについていなかった。横町を曲がって、野原をつっ切って、まもなくわたしたちは追っ手をはるかぬいてしまった。けれどもやはりどんどんかけ続《つづ》けて、いよいよ息がつけなくなるまで止まらなかった。わたしたちは少なくとも三マイル(約五キロ)も走った。ふり返って見るともうだれも追っかけて来なかった。カピとドルスはやはりわたしのすぐ後について来た。ゼルビノは遠くにはなれていた。たぶんぬすんだ肉を食べるので手間を取ったのであろう。
わたしはかれを呼《よ》んだ。けれどもかれはひどい刑罰《けいばつ》に会うことを知りすぎるほど知っていた。そこでわたしのほうへは寄《よ》って来ないで、できるだけ早くかけ出したのである。かれは飢《う》えていた。それだから肉をぬすんだのだ。けれどもわたしはそれを口実《こうじつ》として許《ゆる》すことはできなかった。かれはぬすみをした。わたしが仲間《なかま》の間に規律《きりつ》を保《たも》とうとすれば、罪《つみ》を犯《おか》したものは罰《ばっ》せられなければならない。それをしなかったら、つぎの村へ行って、今度はドルスが同じ事をするであろう。そうなるとカピまでが誘惑《ゆうわく》に負けないとは言えぬ。
わたしはゼルビノに対し、公然刑罰《こうぜんけいばつ》を加《くわ》えなければならなかった。けれどもそれをするためにはかれをつかまえなければならなかった。それはたやすいことではなかった。
わたしはカピのほうへ向いた。
「行ってゼルビノを探《さが》しておいで」とわたしは重おもしく言った。
かれはさっそく言いつけられたとおりするために出て行った。けれどもいつものような元気のないことをわたしは見た。かれの顔つきを見ていると、憲兵《けんぺい》としてかれはわたしの言いつけを果《は》たすよりも、弁護人《べんごにん》としてゼルビノをかばってやりたいように見えた。
わたしはかれが囚人《しゅうじん》を連《つ》れて帰って来るのを、べんべんとこしかけて待つほかはなかった。気ちがいじみたかけっこをしたあとで、休息するのがうれしかった。わたしたちが休んだ所はちょうどこんもりした木かげと、両側《りょうがわ》に広びろと野原の開けた、堀割《ほりわり》の岸であった。ツールーズを出て初《はじ》めて、青あおした、すずしいいなか道に出たのだ。
一時間たったが、犬たちは帰って来なかった。わたしはそろそろ心配になりだしたとき、やっとカピが独《ひと》りぼっち首をうなだれた
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