してのぞきながら、その男はわたしに、「バルブレンのおっかあのうちはここかね」とたずねた。
 わたしは、「おはいんなさい」と言った。
 男は門《かど》の戸をきいきい言わせながらはいって来て、のっそり、うちの前につっ立った。
 こんなよごれくさった男を見たことがなかった。なにしろ、頭のてっぺんから足のつま先まで板を張《は》ったようにどろをかぶっていた。それも半分まだかわききらずにいた。よほど長いあいだ、悪い道をやって来たにちがいない。
 話し声を聞いて、バルブレンのおっかあはかけだして来た。そして、この男がしきいに足をかけようとするところへ、ひょっこり顔を出した。
「パリからことづかって来たが」と男は言った。
 それはごくなんでもないことばだったし、もうこれまでも何べんとなく、それこそ耳にたこ[#「たこ」に傍点]のできるほど聞き慣《な》れたものだったが、どうもそれが『ご亭主《ていしゅ》はたっしゃでいるよ。相変《あいか》わらずかせいでいるよ』という、いつものことばとは、なんだかちがっていた。
「おやおや。ジェロームがどうかしましたね」
 と、おっかあは両手をもみながら声を立てた。
「ああ、ああ、どうもとんだことでね。ご亭主《ていしゅ》はけがをしてね。だが気を落としなさんなよ。けがはけがだが命には別状《べつじょう》がない。だが、かたわぐらいにはなるかもしれない。いまのところ病院にはいっている。わたしはちょうど病室でとなり合わせて、今度国へ帰るについて、ついでにこれだけの事をことづけてくれとたのまれたのさ。ところで、ゆっくりしてはいられない。まだこれから三里(約十二キロ)も歩かなくてはならないし、もうおそくもなっているからね」
 でもおっかあは、もっとくわしい話が開きたいので、ぜひ夕飯《ゆうはん》を食べて行くようにと言ってたのんだ。道は悪いし、森の中にはおおかみが出るといううわさもある。あしたの朝立つことにしたほうがいい。
 男は承知《しょうち》してくれた。そこで炉《ろ》のすみにすわりこんで、腹《はら》いっぱい食べながら、事件《じけん》のくわしい話をした。バルブレンはくずれた足場の下にしかれて大けがをした。そのくせ、そこはだれも行く用事のない場所であったという証言《しょうげん》があったので、建物《たてもの》の請負人《うけおいにん》は一文の賠償金《ばいしょうきん》もしはらわないというのである。
「ご亭主《ていしゅ》も気《き》のどくな。運が悪かったのよ」
 と、男は言った。
「まったく、運が悪かったのよ。世間にはわざとこんなことを種《たね》に、しこたませしめるずるい連中《れんちゅう》もあるのだが、おまえさんのご亭主《ていしゅ》ときては、一文にもならないのだからな」
「まったく運が悪い」と男はこのことばをくり返しながら、どろでつっぱり返っているズボンをかわかしていた。その口ぶりでは、手足の一本ぐらいたたきつぶされても、お金になればいいというらしかった。
「なんでもこれは、請負人《うけおいにん》を相手《あいて》どって裁判所《さいばんしょ》へ持ち出さなければうそだと、おれは勧《すす》めておいたよ」
 男は話のしまいに、こう言った。
「まあ。でも裁判《さいばん》なんということは、ずいぶんお金の要《い》ることでしょう」
「そうだよ。だが勝てばいいさ」
 バルブレンのおっかあは、パリまで出かけて行こうかと思った。でも、それはずいぶんたいへんなことだった。道は遠いし、お金がかかる。
 そのあくる朝、わたしは村へ行ってぼうさんに相談《そうだん》した。ぼうさんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。それでぼうさんが代筆《だいひつ》をして、バルブレンのはいっている慈恵《じけい》病院の司祭《しさい》にあてて、手紙を出すことにした。その返事は二、三日して着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご亭主《ていしゅ》が災難《さいなん》を受けた相手《あいて》にかけ合うについて、入費《にゅうひ》のお金を送ってもらいたいというのであった。
 それからいく日もいく週間もたった。ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと金を送れ金を送れと言って来る。いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう金がないなら、雌牛《めうし》のルセットを売っても、ぜひ金をこしらえろと言って来た。
 いなかで百姓《ひゃくしょう》の仲間《なかま》にはいってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこのことばに、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。百姓にとって、雌牛のありがたさは、一とおりのものではなかった。いかほどびんぼうでも、家内《かない》が多くても、ともかくも雌牛《めうし》が飼《か》ってあるあいだ
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