は一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。
「おまえは好《す》いていたのだね、あのおくさんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その恩《おん》を忘《わす》れてはならないぞ」
そのあとでかれはいつも言い足した。
「だがしかたがなかったのだ」
こう言う親方のことばを、初《はじ》めはわたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン夫人《ふじん》がそばへ置《お》きたいという申し出をこばんだことをさして言うのだとわかった。
親方がしかたがなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは確《たし》かであった。そのうえこのことばの中には後悔《こうかい》に似《に》た心持ちがふくまれていたように思われた。かれはアーサのそばにわたしを残《のこ》しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。
でもなぜかれがミリガン夫人《ふじん》の申し出を承知《しょうち》することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が後悔《こうかい》しているということがわかって、わたしは心の底《そこ》に満足《まんぞく》した。
もうこれでは親方も承知《しょうち》してくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな希望《きぼう》の目標《もくひょう》になった。
それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。
それはローヌ川を上って行くはずであった。そうしてわたしたちはその川の岸に沿《そ》って歩いていた。
それで歩きながらわたしの目は両側《りょうがわ》を限《かぎ》っている丘《おか》や、豊饒《ほうじょう》な田畑よりも、よけい水の上に注がれていた。
わたしたちがアルルとか、タラスコンとか、アヴィニオン、モンテリマール、ヴァランス、ツールノン、ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、波止場《はとば》か橋の上で、そこから川の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号を探《さが》した。遠方に半分、深い霧《きり》にかくれてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。
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