のじゃがいもと、ミリガン夫人《ふじん》の料理番《りょうりばん》のこしらえるくだもの入りのうまいお菓子《かし》やゼリーやクリームやまんじゅうと比《くら》べると、なんというそういであろう。
 あのヴィタリス親方のあとからとぼとぼくっついて、沼《ぬま》のような道や、横なぐりの雨や、こげつくような太陽の中を歩き回るのと、この美しい小舟《こぶね》の旅と比べては、なんというそういであろう。
 料理《りょうり》はうまかった。そうだ、まったくすばらしかった。腹《はら》も減《へ》らないし、くたびれもしないし、暑すぎもせず、寒すぎもしなかった。けれどほんとうに正直なことを言えば、わたしがいちばん深く感じたのは、この夫人《ふじん》と子どもの、めずらしい親切と愛情《あいじょう》であった。
 二度もわたしはわたしの愛《あい》していた人たちから引きはなされた。最初《さいしょ》はなつかしいバルブレンのおっかあから、それからヴィタリス親方から、わたしは犬とさるといっしょに空腹《くうふく》で、みじめなまま捨《す》てられた。
 そこへ美しい夫人《ふじん》がわたしと同じ年ごろの子どもを連《つ》れて現《あらわ》れた。わたしをむかえて、まるでわたしが兄弟ででもあるようにあつかってくれた。
 たびたびわたしはアーサが寝台《ねだい》に結《ゆわ》えつけられて、青い顔をしてねむっているところを見ると、わたしはかれをうらやんだ。健康《けんこう》と元気に満《み》ちたわたしが、かえって病人の子どもをうらやんだ。
 それはわたしがうらやむのは、この子を引き包《つつ》んでいるぜいたくではなかった。美しい小舟《こぶね》ではなかった。それはかれの母親であった。ああ、どのくらいわたしは自分の母親を欲《ほ》しがっているだろう。
 かれの母はいつでもかれにキッスした。そして、かれはいつでもしたいときに、両うでにかの女をだくことができた。その優《やさ》しい夫人《ふじん》の手はたまたまわたしに向けられることもあっても、わたしからは思い切ってそれにさわり得《え》ないのではないか。わたしは自分にキッスしてくれる母親、わたしがキッスすることのできる母親を持たないことを悲しいと思った。
 あるいはいつかまたわたしもバルブレンのおっかあには会うことがあるかもしれない。それはどんなにかうれしいことであろう。でもわたしはもうかの女を母親と呼《よ》ぶこと
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