どうかして、自分がどんなにありがたく思っているか見せたいと思った。
わたしは楽器《がっき》を手に取って、船のへさきのほうへ行って、静《しず》かにひき始《はじ》めた。
貴婦人《きふじん》はふとくちびるに小さな銀《ぎん》の呼子《よぶこ》ぶえを当てて、するどい音《ね》を出した。
わたしはなぜ貴婦人がふえをふいたのであろうと思って、ちょいと音楽をやめた。それはわたしのひき方が悪いからであったか、それともやめろという合図であったか。
自分の身の回りに起こるどんな小さなことも見のがさないアーサは、わたしの不安心《ふあんしん》らしい様子を見つけた。
「お母さまは馬を行かせるために、ふえをふいたんだよ」とかれは言った。
まったくそのとおりであった。馬に引かれた小舟《こぶね》は、そろそろと岸《きし》をはなれて、堀割《ほりわり》の静《しず》かな波を切ってすべって行った。両側《りょうがわ》には木があった。後ろにはしずんで行く夕日のななめな光線が落ちた。
「ひきたまえな」とアーサが言った。
頭をちょっと動かしてかれは母親にそばに来いという合図をした。かれは母親の手を取って、しっかりにぎった。わたしはかれらのために、親方の教えてくれたありったけの曲をひいた。
最初《さいしょ》の友だち
アーサの母親はイギリス人であった、名前をミリガン夫人《ふじん》と言った。後家《ごけ》さんで、アーサは一人っ子であった。少なくとも生きているただ一人の子どもだと考えられていた。なぜというに、かの女はふしぎな事情《じじょう》のもとに、長男をなくした。
その子は生まれて六月《むつき》目に人にさらわれてしまった。それからどうしたかかいもく行くえがわからなかった。もっともその子がかどわかされたころ、ちょうどミリガン夫人《ふじん》はじゅうぶんの探索《たんさく》をすることのできない境遇《きょうぐう》であった。かの女の夫《おっと》は死にかかっていたし、なによりもかの女自身がひどくわずらって、身の回りにどんなことが起こっているか、まるっきりわからずにいた。かの女が意識《いしき》を取り返したときには、夫は死んでいたし、赤子はいなくなっていた。かの女の実の弟に当たるジェイムズ・ミリガン氏《し》はイギリスはもちろん、フランス、ベルギー、ドイツ、イタリアとほうぼうに子どもを探《さが》させたが、結局《けっき
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