に、かれらも空腹《くうふく》を忘《わす》れなければならなかった。わたしはいよいよ調子を高く早くとひいた。すると少しずつだんだんに、音楽がその偉力《いりょく》を現《あらわ》してきた。かれらはおどりだした。わたしはひき続《つづ》けた。
「うまい」――ふとわたしはすみきった子どもの声でこうさけぶのを聞いた。その声はすぐ後ろから聞こえた。わたしはあわててふり向いた。
一せきの遊船《ゆうせん》が堀割《ほりわり》の中に止まっていた。その小舟《こぶね》を引《ひ》っ張《ぱ》っている二ひきの馬は、向こう岸に休んでいた。それはきみょうな小舟であった。わたしはまだこんなふうな船を見たことはなかった。
それは堀割にうかんでいるふつうの船に比《くら》べて、ずっとたけが短かった。そして水面からわずか高い甲板《かんぱん》の上には、ガラスしょうじをたてきった船室があり、その前にはきれいなろうかがあって、つたの葉でおおわれていた。
そこには二人、人がいた。一人はまだ若《わか》い貴婦人《きふじん》で、美しい、そのくせ悲しそうな顔をしていた。もう一人はわたしぐらいの年ごろの男の子で、これはあお向けにねているらしかった。
「うまい」と声をかけたのは、あきらかにこの子どもであった。
わたしはかれらを見つけて、一度はたいへんびっくりしたが、落ち着くと、わたしはぼうしを取って、かれらの賞賛《しょうさん》に感謝《かんしゃ》の意を表《ひょう》した。
「あなたはお楽しみにやっておいでなのですか」と、貴婦人《きふじん》は外国なまりのあるフランス語で言った。
「わたしは犬をしこんでいるのです。それに……自分の気晴らしにも」
子どもはなにか言った。婦人はそのほうにのぞきこんだ。
「あなた、まだやってもらえますか」と、そのとき貴婦人《きふじん》はこちらを向いて言った。
なにかやってくれるか。やらなくってどうするものか。こういうところへ来てくれたお客のために、どうしてやらずにいられよう。わたしはそれを二度と言われるまでも待たなかった。
「ダンスにしましょうか。喜劇《きげき》にしましょうか」とわたしは聞いた。
「ああ、喜劇だ、喜劇だ」と子どもがさけんだ。
けれども貴婦人《きふじん》は口をはさんで、「まあ先にダンスを」と言った。
「ダンスはだって短すぎるもの」と子どもは言った。
「お客さまのお望《のぞ》みとございまし
前へ
次へ
全160ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
マロ エクトール・アンリ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング