は、屋根や煙突に囲まれたほんの少しの空しか見えません。台所の窓からは、そのほんの少しも見えはしないでしょう。壮麗《そうれい》な夕焼の空を隈《くま》なく見渡すことのできるのは、何といっても屋根裏の天窓《ひきまど》です。セエラは夕方になると、用の多い階下からそっとぬけて来て、屋根裏部屋の机の上に立ち、窓から頭を出来るだけ高く出して見るのでした。大空はまるでセエラ一人のもののようでした。どの屋根の上にも、空を眺めている人の頭は見えませんでした。セエラは一人何もかも忘れて、いろいろの形にかたまったり、解けたりする雲を、見つめていました。
 ある夕方、セエラはいつものようにテエブルの上に立って、空を眺めていました。西の空は金色《こんじき》の光に被われ、地球の上に金の潮《うしお》を流しているようでした。その光の中に、飛ぶ鳥の姿が黒々と浮んで見えました。
「素敵、素敵。何だか恐ろしいほど素敵な日没だわ。何か思いがけないことでも起るのじゃアないかしら。」
 とふいに、何か聞きなれぬ物音がしました。振返ると、お隣の窓が開いて、白い頭布《タアベン》を捲いた印度人の頭が、続いて白衣《びゃくえ》の肩が出て来ました。――「東印度水夫《ラスカア》だ。」と、セエラはすぐ思いました。――彼の胸もとには、一匹の小猿がまつわりついていました。さっき聞いた妙な音は、小猿の声だったのでした。
 セエラが男の方を見ると、男もセエラを見返しました。男の顔は悲しげで、故郷《ふるさと》恋しいというようでした。霧の多いロンドンでは、めったに太陽を見ることが出来ないので、男はきっと印度で見なれた太陽を見に上って来たのでしょう。セエラはまじまじと男を見て、それから屋根越にほほえみました。セエラは辛い日を送って来た間に、たとい知らぬ人からでも、ほほえみかけられるのはうれしいということを、身に沁《し》みて感じていたのでした。
 セエラの微笑《ほほえみ》は、男を喜ばしたに違いありません。彼は夕闇《ゆうやみ》のような顔をぱっと輝かして、白い歯並を見せて笑いました。
 猿は男が挨拶しようとした隙に、ふと男の手を離れて、屋根を飛びこえ、セエラの肩に足をかけて、部屋の中に飛びこんでしまいました。セエラは面白がって笑い出しました。が、すぐ猿を主人に――あのラスカアが主人なら、あのラスカアに――返してやらなければならないと思いました。が、セエラはどうして猿を捕えたらいいか、判りませんでした。下手に捕えようとして、逃げ失せられでもすると大変です。で、セエラは、昔ならい覚えた印度の言葉で、
「あの猿は、私に捕るでしょうか?」と、訊ねました。
 男は、セエラが自分の国の言葉で話すのを聞くと、ひどく驚き、同時に喜びました。そしてべらべらと、その言葉でしゃべり始めました。彼の名はラム・ダスというのだそうでした。猿はなかなかいうことを聞かないだろうから、セエラが許してくれるなら、自分が行って捕えようと、彼はいいました。
「でも、屋根と屋根との間を飛んで来られて?」
「造作ないことです。」
「じゃア来てちょうだい。怯えて向うへ行ったり、こっちへ来たり、大騒ぎしているから。」
 ラム・ダスは、天窓からするりと屋根の上に上ると、生れてから今まで屋根を渡って暮して来たかのように、身も軽々とセエラの方へ渡って来ました。彼[#「彼」は底本では「後」]は足音も立てず、天窓からセエラの部屋に辷《すべ》りこみ、セエラに向き直って、印度流の額手礼《サラアム》をしました。猿はラム・ダスを見ると小さな叫声《さけびごえ》を揚げました。が、彼が天窓を閉めて捕えにかかると、戯談《じょうだん》にちょっと逃げ廻って、すぐラム・ダスの首に噛《かじ》りつきました。
 ラム・ダスは、セエラに厚く礼をいいました。彼のすばやい眼は、室内の惨めな様子を、一目で見てとったようでしたが、セエラに向っては何にも気づかぬふりをして、まるで王女にでも物をいうように話しかけました。彼はじき暇を告げました、「病気の御主人は、猿を失ったらどんなに落胆したでございましょう」などと、繰り返しお礼をいいながら。
 ラム・ダスが去ったあと、セエラはしばらく屋根裏部屋の真中に立ったまま、思い出に耽っておりました。セエラはラム・ダスの印度服や、うやうやしげな態度を見ると、印度にいた時のことを思い起さずにはいられませんでした。一時間前には、料理番にまで罵られていた今のセエラが、かつてはたくさんの召使にかしづかれていたのだと思うと、おかしいくらいでした。それはもう過ぎ去った昔のことで、そんな身分にまたなれるとは思えませんでした。ミンチン先生はセエラが相当の年になるのを待って、たくさんの組を受け持たせるでしょう。その務《つとめ》が、今の雑用より楽だとは思えません。着るものなどは先生らしく
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