分らないのか?」
 之は何よりも悪い思想である。盗む機会を態と与えてやる人は、恐らくその機会に引き入れられて、盗みを行う人よりもより多く有罪であるに違いない。
 私の不注意と無関心とを覘っていた娘は、不意に一本の櫛を抜き取って、袖の下へ隠した、立ち上ると、今度は袂の中へ押し込んで、急いで闇の濃い方へ消え去ろうとした。
 痛々しい生活に疲れて、何の慰みもない私は、此の時久しぶりに淋しい微笑を洩らしたのである。それは何とも云えぬ意地悪い、悪魔的な笑いであった。私は網を掛けて太った鴨を捕えた百姓と同じ心持になって立ち上った。
 私は或る露店で女性の後ろ姿に追いついた。
「へへへへへ―へへへへへ」と私は唯笑って跡に従った。けれど、「貴方は盗んだね。」と難詰する事を何故か控えて了った。此の忍耐が何よりも悪かったのである。私は何も弁解しまい。私には実を云うと私の心理がよく分らない。痛み――何か漠然とした痛みがあった丈なのである。
 娘は一寸振返った。彼の女は確かに驚いた如く見えた。見えたと云っても、其処は全くの闇の中だったので、或いは彼の女は私を見なかったかも知れない。又私を見たとしても、それがセルロイドやエボナイトの商人だとは感附かなかったかも知れないのである。
 私は忍耐した。それは実に悪性の忍耐であった。露店の方を捨てて置く訳に行かないのを感附いた私は、盗人の娘から分れると直ぐ道を取って返した。ところが半ば迄帰って来ると一つの悪心が明瞭にカマ首を持ち上げて来たのを、私は闇の中に見附けた。
「店は何うでもなれ! 私は面白い事の方へ行くんだ!」
 私は再び娘を追った。そして何処迄も声を掛けずに跡をつけた。娘は一つの家の前に止まり、中へ入ろうとして一寸注意深そうに後ろを見た。その時である!
「お嬢さん。へへへへへ」と私は闇から首を伸ばした。娘は血が凍ったように直立した。そして、何処からか漂うて来る極く僅かな燈光で私の顔を見入った。彼の女は初め歯の根も合わぬ口を動かして、何か云い出そうとするようであったが、不図思い返したように恐る恐る袂から例の櫛をそっと出して、今度は力強く突きつけた。
「そんなもの、地面へお捨てなさい。へへへそんなもの入りません。へへへ」と私は低い劬るような声で呟いた。それが却って娘を戦慄させたらしかった。彼の女は唖のように唯オオオオオと口走った。事に依ったら本統の唖かも知れなかったのである。
「お嬢さんの名は?」と私は試しに尋ねた。
「ミサ……」と女性は服従的に答えた。
 おお此の女性は本当の悪人ではない。彼の女はすっかり恐怖している。そして私を巡査と同じように尊敬している。人が悪事を後悔した瞬間程屈従的な心に変ずるものはない。そんな時には弱い子供に打たれても、打ち返す力さえ出ないのである。
「之、貴方の家?」私は少し威嚇的に訊ねた。屈従に対して威嚇を強いるのは人間の持ち前である。
「ええ……」
「あしたの晩、ここへ忍んで来るから会って下さいね。私は貴方を美しいと思ってるんです。」私はやさしく、大人しく頼んだ。
 女性の顔は再び変った。彼の女はよろけながら後じさりをした。困惑と絶望とが体中に見えた。
「ああ……それは……」
「いけないと云うんですか?」
「でも……」
「あの事……あの事が世間へ知れたら困りますよ。分ってますね。」
「分ってます。さ。お返ししますわ。許して下さいましね。」娘は初めて涙を落した。
「それは入りません。そのハンカチを下さい。」私は斯う云って女性の手にあるハンケチを取り上げた。
「では、きっと私に会って下さいね。私はもう、貴方に恋して了っているんです。」
 女性は私を眤と見詰めた。そして恐怖しながらも、私の顔が嫌いでないのを感じた如くに見受けられた。彼の女は少しの間、目を閉じて考え続け、やがて黙って家へ入ろうとした。
「あしたの晩の八時! 間違いなくね。それでないと世間へ知れますからね。」
「え! 考えときますわ。」
「今、承知して下さい!」
「では、八時!」
 娘は家の裏へ逃げて行った。私は緊張の後の疲れを感じて、淋し相に店の方へ帰った。
 ああ何と云う悲しい陰惨な計略!
 私は闇を歩き乍ら、自分を憐愍して、女のように嘆いた。本当に電柱へ縋って嘆いたのであった。
 全体之は何であるか? 私は何を悩み、何を為しつつあったか?
 私には全く反省力が欠けているのか?
 否、私は自分の心の闇を見詰めるのが恐ろしいのであった。然もそれは結局|発《あば》かれずに済まされないものだった。
 私は静かに注意力を集め、見る可きものを指摘せねばならない。分っている。私が本来望んでいるのは女性を虐待する事ではなかったではないか。妹のための復讐! それが初めでもあり、終りでもある唯一のそして重要な予定ではなかったか?
 皆分って了っている。今更弁解は一切不用であろう。分っている。実に、人々よ。鬱積せる復讐心、満たさるる事なき一つの願望、それが目的の道を閉ざされた時には、必ず曲った方向へ外れて行かねばならない。
 精神分析家はそんな傾向から来る悪い行為を「復讐の代償」と呼ぶが好い。私は実に新しい相手へ向って無意識的に「代償」を実行したに相違ないではないか。自分の苦悩を軽減するために、他人の苦悩するさまを見て楽しむとは……ああ、それは虎にも獅子にも具わっていない特異なる残忍性の発露である。私が男らしくなく泣き崩れ、何処にも救いを見出せない闇の中を這い廻ったのは、以上の事に気附いたからであった。
 蛇と鰐と狐とを混ぜ合して煮ても、私の心よりひどい濁りは浮いて来まい。
 今、今ならば何うにか直せそうである。早く、早く、私はあの娘にもう一度会って、私の醜い謀みを詫びよう。ああ彼の女は何んなに眠れぬ時間を持ち扱い、悔恨と困惑とで懊悩している事であろう。彼の女は罠に陥ちた兎よりも、もっと憐れ深く悶えているに相違ないのであった。
「復讐の代償」……そんな卑怯な陰惨なものがあって好いだろうか? 実にもう何の弁解も入りはしない。唯一つ云って置こう。弱い心と卑怯とは同じものを意味するのである。

   悪心の中に包まれ育つ善心

 闇は限りなく濃くなって、気体でなく、固体――油じみた古い布団のように私を圧した。眠ろうとしても心の静かにならない哀れさ。髪の毛の生え目は一つ一つに痛み、眼や鼻は硫黄の煙りで害されたように渋く充血した。
 道を曲げてはいけない! 一つの目的を明確に意識せねばならない! 復讐の相手の顔から眼を外らしてはいけない!
 正直な心、曲らぬ心、何故それをはっきりと保ち得ないのか?
 けれど軈て私は熱っぽい眠りに堕ちて行った。夢は再び私を悲しく覚醒させた。何でも太って赭い顔の男が私に斯う話したのである、
「兄弟を殺しても、御免なさいと云やあ、それで済んだ時代があったさ。時代、時代がね。」
 それから想起し得ない混乱の後に、私の亡父が表れ、不快な舌を以て呟いた。
「帽子を盗んでも、首を切っても、同じ位の罪しか感ぜぬ人間もあった。それから、それで好い時代もあった。時代も。」
 私は恐怖する。之等の夢の示現は何を意味しているのか? 私は心の奥底から後悔していない為めに、斯んな荒れた考えを夢みるであろうか?
 私には分らない。あまり信用のおけぬ潜在意識下に何か私の顕在意識と異った思想が埋没されていて、それが浅間しくも夢の姿で現れて来るのか? 私は根からの悪人なのか? それとも、之は何か心の狂いに過ぎぬのか?
「楽しい場合にも、苦しい場合にも、お前達は互いに人と人との間の深い縁を感じあえよ。楽しい場合には、それに依って楽しみが倍になるし、苦しい場合には、その苦しみが和らげられるのではないか。」
 私は此の頃強く痛く如上の言葉の正しさを感じているのだ。それは簡単な教えである。
「愛してやれよ。」と云う声が上から聞え、
「愛して下さい。」と云う声が下に聞えているではないか。
 私が火傷した老職工の家庭を助けてやろうと考え、又それを実行して来たのは一体何故であり、何の目的であったか? 之をも「復讐の代償」と呼び捨てる無慈悲な人が何処にいるだろう。ああ之が自暴自棄から起った業とらしい忍苦だと誰が判断するか?
 おお、眼にはっきりと見えて来る。老人は爛れた神経の尖に熱した針の苦痛を味って床の上を転がり廻っている。幼い子供は恐ろしがって南京鼠のように怯え、慌て、這い廻っている。一番小さい子丈が平気で、お椀へ一杯砂を盛り上げて、何の真似か知らぬが、小さい手を合せて拝んでいる。
 之は何でもない事だと、耳で聴いた人は云うであろう。だが眼で見たものが、此の哀れな生きものたちへ「復讐の代償」を試みる勇気があろうか? 「愛してやって呉れよ。」その言葉は誰の口から出ようとも、此の場合に当て嵌った真実ではないか?
 一日二円を儲けた人が、一円を割りさいて与えようと思うのは此のような時である。
「その品はあの人にやって下さい。」
「その本をあの子に教えてやって下さい。」
「その楽しい歌をあの子に唱わして下さい。」
 皆は斯う願わねばなるまい。ああ、それは本能によっても、思想によっても、当然なことではないか。もう分り過ぎた事である。
 私は本当に心が片輪なのではなかった。唯時々片輪になるに過ぎない。私には正しい事物が好く分るのだ。だのに、あの少女を、あの正直そうな初心な盗人の処女を何うして罠へ引き入れ得るか?
 私には時々悪魔が取りつくのか? 幼い時に正しい愛で養育されなかった事、思春期に於ける修養を欠いた事、この二つは悪魔の大好物である。私は不当な変態心理の父母を持たねばならなかった。私は悪い友の中でばかり遊んだ。善良なものを見ぬために、不良なものを当り前と思い込んだ。それが今頃になって漸く分って来たのである。
 誰か私を縛る繩を解いて呉れ、耳へ詰っている砂を掘り出して呉れ、魚の鱗のような曇りを私の白内障のような眼から取り去って呉れ。
 おお、それ丈ではない。早く、早く、今の内、あしたではもう遅い。今直ぐ、何処かに繩でつるされて唸っている継子を下へ下してやって呉れ、焼火箸を継母の手から取り去って呉れ。
 きびし過ぎる親と、無関心過ぎる親とを集め、私を実例にして何か恐ろしい事を講話してやって呉れ。虐待される幼児達を悪い親の手から離して、情深い師匠の下に置いて呉れ。
 それが済んだら、子供達の偏屈と意地悪とを矯正してやって呉れ、幼芽の中は樫でさえ好くしなう。それが肝心な所である。
 柔和な話を聞かせ、さらに、柔和な行為を現実で見せてやり、何を模倣す可きか、よりも、之を模放せよ、之を習慣にせよ、と教えてやって呉れ。此の模倣、この習慣からこそ将来、何をなす可きか、を知る健全な思慮は生れ出ずるのである。車を正しく走らすために、軌道を与える事、之が何よりも初めの仕事である。
 いや、然し、再び、私は私の事を考える可きであった。夜中でも構わない。私はあの免職教員へ悉くあった事、之から起りそうな事を話し、愬《うった》え、懺悔しよう。神を知らぬ私は、唯、あの教員に「許して下さい。」と願って伏し倒れよう。そして、一切の始末をつけて貰わねばいけないのだ。私は気の替り易い悪人である。今正直にしていても、あしたは盗みを平気でしているかも知れない様な、そんな頼りにならぬ罪人である。
「善い事をしようとして、悪い事へ導かれる男」それが私と云う人間である。
 ことによったら、妹の「復讐」をも、(卑怯からでなく、勇気と親愛とから)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]断念せねばなるまい。ああ、そして、それも善い事なのだと大勢の人が話している。
 斯くて私は夜中に雨をついて免職教員を訪ね、謝罪すべき点を謝罪し、頼む可き事をすっかり頼んだ。
 翌日の夜になると、教員は私の代理として、あの盗みをした処女の家の近くへ出掛けて行った。処女は約束を守って、八時になると、家から出て来、待っている教員を私と間違えて慄えた。柔和な教員は一切の事情を上手に分り好く話してやり、彼の女の心
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