して了ったんです。ああその時です。私に水を呉れたのは私の妻だったんです。お前は……お前丈は私の味方なのかと云って私は妻に泣き縋りました。妻は姉の毛を引張って、後ろ倒しにしてやった事を涙乍らに語りました。私はその涙を見たばかりで一切の立腹をこらえようと決心しました。皆から憎まれている時、たった一人の者に愛された気持を誰か知っている人はありませんか。おお……vと彼は手ばなしで泣いた。その時、傍聴席の一角からも細い女の歔欷が聞えて来たので、その方を見ると、高の妻らしい貧乏な女が顔を脹らして泣いていたのを私達は知った。
「それからY署へ連れて行かれたが、巡査たちが皆兄の方を信用し、私を危険人物のように睨め廻すんです。疑い深い沢山の眼に取りかこまれて、私は又頼り所のない淋しさと憤怒とを感ぜずにはいられませんでした。兄は『あの金ダライは元私のもので、高は勝手に彼の名をペンキで書いて、自分のものだと云い張るんです。』と誠らしく訴えました。警部は直ぐその言葉を信用して了って、はては多くの巡査や、集って来た車掌迄が、さんざん私を嘲笑したんです。いくら私が異国のものだと云って、之はあんまりひどい。ひどすぎます。私は眼がつぶれたように悲しくなり、そこいらが真暗になって了う程、耻辱を感じました。なんぼ朝鮮人だって、心と云うものは持っています。何方を見ても真暗で、自分の本統の心持や、正直な考えを聴いて呉れる人がないのを知る時、人は無人島へ行ったよりつらくなって了います。無人島に着いた男は王者のように自由です。けれども此処では……闇にとりまかれた盲目で跛の奴隷が見出される丈です。信頼していた警官たちまで、こんなに私を憎み、私を疑い、卑怯な片手落ちをして少しも自ら耻じないんです。此の上は自分の憤りの治る迄人を殺し、自分も地獄へ堕ちて、新らしい世界に住もうと云う心が起きずにはいられないではありませんか。おおそれが何故無理なんです。いいえ、私はもう決心しました。私は刀を磨ぎ初めました。すると隣りの親切な老人が、『高さんは遠い所から来ていて淋しいんだもの。何事も公平にし、喧嘩の元を引き起さないように……』と兄の妻へ話しているのが聞えました。ああその時、私は何んなに刀を磨ぐのを控え、感謝の心を以て怒りを飲み込み、こらえ、しのんだでしょう。私の妻も声を立てて泣いて居りました。」
高は途切れ途切れに以上のような告白を語り明したのである。傍聴席の妻女は到頭狂的に泣き出して、誰かの注意で外へ押し出された。
小学教員は沈んだ顔になって、私とは別の事を考え続けていた。
「ああ」と私は体をふるわし、自分のと他人のとを一緒に混ぜた涙をためて独語した。それから(後になって考えて見ると)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]私は夢中で駈け出したに相違ない。朝鮮人の妻に追いついた私は、彼の女の恐れるのをも構わず、彼の女の肩を撫で、髪についていた藁屑をつまみ取ってやった。
「何すんの?」女性は私を怪しみ訝った。
「無理はない。貴方も私も疑い深くなっている。お互いに殻を背負っている。私が恐く見えても、ああ、それは構わない。我々はセンチメンタルな事はきらいなのだ。だのに私は此の通りなんだ。」そう云うと私は真赤な眼から大粒の涙をふり落し、軈《やが》て、男らしくない挙動を耻じるように、女性の前から姿を消し、溝の中へ持ち合した四十銭を捨てて了った。
朝鮮人、支那人、それから彼等に似た日本人、可哀想な彼等の中に、此の私も一員として加っている。それが事実でないと誰が云おう。私は自ら痛みつつ又彼等を痛み愍れんだ。あの一人の朝鮮人に、私の生命の半分がつながっている。私を見ようと思えば、彼を見るが好い。若し私が彼であったら、私は彼のなした通りをせねばならなかったであろう。いや、聖者と呼ばるる特別の人を除いたあらゆる普通の人なら、彼の如き境遇の中で、その徳と智慧とを完全に保つ事は六ケ敷いであろう。
彼は悪い男である。それに何の間違いがあろう。けれど私は余りに好く知っている。他の事を、他の事を、斯んな種類の悪は自身で自然に湧き起る力のないことを! 之は善を隔たる一歩のものであることを!
復讐の代償
未だ何かが続いている。
私の所へ不愉快な手紙が達いている。それは例の哀れな姉妹からであった。彼等は初めの中こそアバズレであったが、今ではまるで継子のように言葉も少くなって了っていたのである。男を知ってから縮み上って大人しくなる女は決して少くない。私のある知り合いは電車の中である女と近づきになった。二人は図々しく郊外の畑道を歩いた。男は好い気になって女と関係し、それから小使いを呉れとせがんだ。女は一円呉れて、あとはお前と一緒に連れ添うてからやると云った。男は承知しないでもっと出せとせがんだ。すると女は怒って男の襟をつかみ、ふり廻し、「私を唯の女と思ってるのか?」とおどした。男も黙っていなかった。「この畜生!」と怒鳴ると女の首を絞めた。女は手を合せて拝み、それからは大人しく何でも男の云う事に従った。何か新らしい事を教えると女は男を尊敬するようになるのである。
それだから、あのアバズレ共が今になって何れ程私から新しい世界を見せられ、そこへ導かれたかは云う迄もないであろう。
来た手紙には斯う書いてあった。
「……本統に私達は生きていたくありません。生きていたって、生きている気持がしていませんわ。」私は口惜しそうにそれを破きすてた。
又その次に姉丈が一人で手紙を寄越した。
「……貴方は何んと云う方でしょう。愛する印だと云って私の腕へSと云う形の傷をおつけになりましたね。そして、ああ何と云う事でしょう。妹の腕を見たら……そこにも矢張り、Nと云う傷がありましたわ。私は貴方の心持が分らないで泣いて居ります。」之が新らしい教えの一つである。
又その次に妹の方がサッサとよこした。
「………私丈を連れて逃げて下さい。私は怨んでいますよ。」
それから別々に沢山来た。又一緒に書いても来た。もう無茶苦茶に書いてあったり、丁寧に考えて書いてあったりした。大概は馬鹿な事が云われ、時には利巧な事も云われてあった。無為に然も急速に時がたって、又手紙が来た。
「……貴方は何故何うにかして下さらないのです。私達は之から何うなりますのでしょう。ああ、困ります。
今日或る人が噺した事を聴いて、私達はふるえました。それは斯うで御座います。
去る十二日、身元不明の妊娠女の溺死体が石油庫の前の川へ流れて参りますと、続いて又異った妊娠女の死体が出て参りました。一方は初めから浮いていました。もう一つの方は呼ばれたように底から出て来て、浮いてる方のそばへ行きました。すると両方の鼻から血が出たと云う事でした。あとで検べたら、二人は同じ模様の長襦袢を着ていました。二人は姉と妹であったのです。姉は妊娠四ケ月妹は五ケ月であった相です。妹の方が一ケ月先へ妊娠していたのです。ああ、貴方何う云うお積りなのですか。分りません。私達は泣いて居ります。この人々のようになったら何うしましょう。そして、この人々のようになるのは随分たやすい事ですわ。二人で心を痛めておりますわ。ああお怨み申します。」
まずい文章ではあるが思っている事の十分の一位は表現出来ている。二人はそんな話をきいて悲しみのあまり手紙を書いたのであろう。そして可哀想に文章にはその悲しみさえよくは表れていないのである。
その又次には妹がよこした。
「……姉はあんな病気をしたのですもの。決して心配はありません。きっとまだ出来ては居りませんでしょう。又そんな事をきいても見ません。けれど私は丁度年も宜敷く、丈夫な身ですもの、今度こそは妊娠だと思います。ああ、あなたは何うして下さいますか。此の前のように間違いであったら好いと思っていますが。今度は何うしても間違いではありません。何うしてもそうのようです。怨みます。もう死んで了います。早く来て下さい。私丈と逃げて下さい。」
姉の方は姉の方でやっていた。
「……貴方はあんまりです。私は川へ入って死んで了います。妹と一緒に死にます。あの此の間あった話のように。……妹は毎日吐いています。あれは妊娠したのです。けれど貴方の子ではありません。あれはまだ他に古い馴染を持っています。貴方はそれを信じないのですか。」
未だ未だ手紙は来ては破かれ、捨てられた。
「畜生!」と私は独りで怒鳴った。「手前達二人に情死なぞ出来るものか? お互いに殺しっこをしても自分は救われようとしている癖に、二人で川へなぞ入れるものかい、馬鹿! 手前等は引き潮の時に潮干狩りでもしやがれ。二人で引かき合え。喰いつき合え。だが何うして一緒に姉妹心中なんかが出来るもんかい。」ああ之は何と云う無慈悲であったろう。
妹の冤罪で憤怒し狂乱している私の心は全く悪辣になった。私は自分でそれを悲しみ、泣き、悔い、又怒った。そして結局は何も悲しまず、悔いないのと同じであった。
そして時には、自分と自分の周囲とを忘却するために、憎んでいる女等のもとに走っては、獣の如きことを繰返した。女等はその度に思い出して私を怨み、時には柔かな手で私の頬を打った。何故か私は「打て、もっと打て!」と叫びつつ、少しも抵抗しなかった。それは相手を憐愍するから起る忍耐ではなく、ああ実に、聴く人があらば聴いて貰いたい、実に、それは、自分から自分を侮辱し軽蔑する自棄と放胆とから生じた忍耐であった。
では之が一切であったか。之が起った事の凡てであったか。いや、之からが本統の話しになるのである。
云い忘れて了ったが、私は病院に寄食していた頃、カリエス患者のコルセットを造るため、セルロイドを取り扱う事に習熟したので、その後もあるセルロイド工場へ入って生活費を得ていたのである。
そして、他を罰してやるためには、自分を出来る丈正しく保たねばならないと云う考えで、自分を鞭打った。けれども之が私に取って無効なる痛みに過ぎなかったのは、何と云う悲しさであったろう。
正直に云って了う。一つの憤怒を抱いた人間は、却ってその憤怒のために堕落しやすいものである。ああ、私は何れ程心の平静を望んだ事であろう。此の憤怒! この動乱がいけないんだ、と叫んでは、自分の爪で自分の胸を掻きむしった。之は何と云う矛盾した心理であろうか。憤怒があればこそ罰を謀《たくら》むのであり、罰を謀むから、正しい心を欲するのであるのに、正しい心を持つには、憤激それ自身が邪魔となるのである。
「えい! 何たる苦しみの鼬ごっこだ!」何度操返しても、それは実に同じであった。
然し私は心を取り直した。(少くともそう思われる。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]同じ工場に通う老いた職工が火傷のために休職し、喰うにも困っているのを聞くと、私は深甚な同情のようなものに刺戟され、そして、露店を出してセルロイドの櫛やシャボン入れや、その他の小さい道具を小売りし、儲けた利益丈をその老人と家族へ恵んでやろうと云う企画で私を喜ばした。
実際、私はその企画を実行する勇気を持つ事が出来た。ほんの宵の中丈露店を開くのではあるが、疵物なぞを安く割引して売るために、客の足は思ったよりも繁かった。そこ迄は実によく行ったのである。その先は何と云う悲惨であろう。
私は薄暗い燈火を前にして、地面の上に坐ってい乍ら、眼前に蹲踞んで、櫛を漁っている美しい若い女性を横目で見た。彼の女の挙動には強いて落ち着を見せようとするため、却って慌てているような風が窺われた。いやそれのみではない。彼の女が私の眼から隠れて、一本の櫛を盗み取り相にする所を私は不意と直覚した。勿論その時に、私が眼を正面へ向けたならば、女性は罪を犯し得なかったに相違ない。けれど意地の悪くなっている私は自然にそうする事を耐えて了った。
「待てよ。あの女は盗もうとしている。だが私の注意を恐れて、躊躇している。悪い女め! 私が何も知らないと思っているのか? 私がお前を罪に陥してやろうとして、態と見ぬふりをしているのが
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