え? 院長の子息! そして院長も?」
「私は此の眼で見たんですからね。」[#底本では「。」が抜けている]
「何を……いまわしい事をですか?」
「妹さんは紫色の室で寝た事があるんですよ。」
「え。あの小さい噴水のある室?」
「ハハハハ院長の大好きな室なんだ。あの室へ入って助かった女はないんだからな。」
「そして、院長の死んだ後には、その子息があの室を使ったのですか?」
「それは見|達《とど》けてないのですが。他の場所で、二人の立って居る所を私は一寸見掛けたのです。そして私は二人の間に何かしら恋愛の火花が行交うているのを感じたんです。勿論その時は感じた丈なんですが……」
「では……あとで、もっと委しく判明したと仰言るんですね。」
「不幸な事に、その通りなんです。」
「何を見たんです。云って下さい。何うか遠慮なしに……」
「貴方! 紫色の室の直ぐ隣りは未だ人の入った事もない不用の室ですが、知って居ますか。あの室は全く何の目的もなしに空いているんです。貴方の妹さんはあの室を一週間に一度丈掃除するのですが、それに掛る時間は何時も二十分なんです。薬局の前を通って行って、又帰って来ると二十分丈何時も過ぎるんです。それが或時、三十分たっても帰って来ないんです。(私はその時或る薬を煮ていて、一定の煮沸時間を知るため、時計に注意していたんですがね。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]可笑しいな、と私は考えました。一寸した戯れの心から、私はあの不用の室へ様子を見に行ったんです。すると何うでしょう。扉がしまっていて、私が押しても引いても動かないんですね。ははあ之は中から鍵がかけてある、そして、鍵がその儘、鍵穴へ嵌っている、と私は感づきました。そして室を掃除するのに、鍵を掛けると云うのは何より理に合わない話しではありませんか?」
「妹は……中に居ったのですか? 泣いてでもいたんですか?」兄である私は当然他人よりも熱心になって訊いた。
「私は悪い所へ来て了ったと思いました。唯それ丈です。勿論ハタキの音も何も聞えませんでした。それから、ずっと後になって妹さんに鍵を持っているのかと尋ねて見たんです。答えは私の予想通り、若い主人が持っているのだと云うことでした。私は単なる興味丈で、そう云う事を探るのは罪だと思いましてね、その先を突き詰めて聞くのを態と避けたのですが、今になって見ると、もっと深く知って置けばよかったと悔いているのです。と云うのは……」と薬剤師は悲しげに、私の方へ顔を寄せた。
「先へ伺って置きたいのですが、あの放火と、その恋愛とには、何か関係があるのでしょうか?」私は斯う念を入れた。
「あるからこそ、お話ししてるんです。」
「では、何故、判決以前に知らして呉れないんです。」
「その頃はね、何しろ、姉の非業な最期のために、私も反省や洞察の力を全然失って了っていたし、未だ、本統の急所は気附かずにいたものですからね。」
「そうです。貴方の姉さんの死の事を考えると、私はもう肋骨を引きはがされるようなんです。」と私は下を向いて呟いた。
「油で黒くなって、眼球から湯気の立っていた有様を私は何うしても忘れ去れないんです。」薬剤師は涙をためて私を怨めし相に睨め、それから又思い出して続けた。
「もう云いますまいね。貴方も私も不快になる丈ですから。……いや、それより、あの院長の子息が大変好色な事は死んだ姉からもよく聞きました。姉へも妙な話を持ち掛けたんだ相ですからね。それから貴方も姉に云い寄った事があるそうですね。姉は貴方を讃めていましたよ。」
「それは何かの間違いでしょう。貴方の姉さんは私にそれとなく何かを仰言ったり、手紙を呉れたりしましたがね。未だ何でもなかったんです。私から云い寄るなんて、そんな事はありませんでした……」私は黒焦げの女を思い出しつつ気味悪く否定した。
 会話は長く続けられた。そして何でも一番の罪は院長の子息にあるらしいと云う判定に到着した。一部の噂に依ると、息子は父の残した大きな借財の始末に窮し果てていたのである。そして院長の死後急に寂れ出した大きな病院の維持も覚つかなくなっていたらしい。「焼けて了った方が結局利益になる。保険金が入れば、それで他の小さい事業に移れる訳だ。」と云う考えは当然息子の頭の中を往来したのであろう。けれども自分で放火すれば陰謀は直ぐ発覚して了うに相違ない。色仕掛けで心を捕えて、白痴の娘を利用しようと云う悪辣な考案が何うして続いて起らずにいるだろうか。
「それなんです。」と薬剤師は恐ろしい形相をして云いよどんだ。
「確かですか?」
「恐らく之より確かなことはない筈だ。貴方が女から生れたと云う事より、もっと確かだ。分りますか? 然も貴方が女から生れかかっている所を誰も見たのではないんです。」
「それで息子の罪については、何の證拠もないと云うのですか?」
「少しはあるんです。妹さんは時々独り言を云う癖があるでしょう。或る時、洗濯物を抱えた儘で『貴方、貴方、貴方!』と口走っていたんです。誰だって、自分の事を貴方なんて云いはしませんからね。」
「それは證拠とは云えませんね。」と私は薬剤師を少し疑った。けれども、私は妹が院長の息子のために貞操を傷けられ、その上、詐欺的犯罪の犠牲となって、獄舎へ迄も引かれたのだと云う漠然とした観念を植えつけられずにはいなかった。
 怨恨と憤怒とは再び私の心を領した。薬剤師と心を組んで、色々の噂や、息子の様子を探れば探る程、疑いは真実と代って行った。
 残忍な内謀は日に日に私の心の中で育って行った。読者は忘れたであろうか? 私は一時自暴自棄と依怙地とから、犬殺しにさえ進んでなった、暗怪な青年である。
 私は殺人を夢み、又妄想し、遂に意図し、企画し初めたのである。刃物は用意され、逃げる道が地図の上に赤い線で記された。
 ある人は私の愚を詰って云うであろう。何故お前は真の犯人たる院長の息子を其の筋へ訴えないのか? と。
 けれど、それは私の眼から見るなら無駄事としか思われない。起訴した処で、我々が敗けるのは初めから判明しているのではないか。
 息子は妹を強いて姦したと云うのではない。又放火を教唆したとしても、その證拠は上っていない。それに裁判官達にも名誉と云うものが必要である。そして之は真理を葬ることに慣れた一地方に起った事である。間違った判決をその儘で通すのが、彼等に取って最も利益であるのは判り過ぎているではないか。それが彼等の妻子を安全に暮させる最上の方法である。それが彼等の鬚に滋養をつけ、一層上方へ伸び上げるようにする最適の方法なのである。裁判長の鬚は後ろからでも見える――その鬚こそ此の地方での最も誇る可き名物だったのだ。裁判長は神経衰弱に落ちて、カルシュームを含むカルピスと精力素と云う薬と、ヘモグロピンとヴィタモーゲンとを服用し、その上にビフステキを食べるのだが、其れが皆鬚になって了うのである。

   朝鮮人を憐む支那人

 何うして忘れ得よう。そして何を忘れようと云うのであるか。いや、反対に、私は記憶のあらゆる粒を一時に思い浮べるのだ。
 私は歯がみをし、骨が響きを発する程に腕を振り、又眼前の物体は何に限らず蹴返した。あの沈着で痩薄な院長、彼が恐らく病的に迄も進んでいた色魔であったことを、私は今漸くにハッキリと思い当たる。私が紫色の室に休んでいた時も、記憶力の鈍い院長は誰か女性を閉じ込めてあるように錯覚して、私のもとへ忍んで来たのかも知れなかった。あの赤くなった顔、私に媚びを作る猫のように光った眼なぞが、一時に私の頭の中を這い廻った。おお、そして院長の子息も斯んな卑しい気質を残らず遺伝していたのである。妹は何と云う哀れな娘であったろう。彼の女は二人の乞食の耻を、一人で受けたようなものではないか。
 それだのに、私の復讐心は何故もっと強烈に燃え上らないのか? 私は実に自分が中気病みででもあるかの如く、町や室中をよろめき歩いた。けれど、何時迄待っても妄想が実行に変化する機会を捕え得なかったのは一体何故なのであろうか――私は自分に聞いて見ている――勇気! それから真心! この二つが欠けた所に、興味中心の残忍性丈が狂い廻っているのではないか? そして私は遂に心の弱い青年――悩む事を知って、切り抜ける事を悟れぬ愚かな男に過ぎなかったのであろうか。
 興味から来る残忍! それは多くの殺人者に取って必須の要件である。けれど、私の場合では、その興味を求める願望が本能的と云える程には狂暴でなかったに相違ない。
「駄目なのか? 本統に実行出来ないのか?」私は自分の胸を棒で打っては斯う問い続けたのである。
 私は実に、斯んな工合であった。自分を嘲ける悪魔の声が、自分の心の中で聞え初めた時、私は何んなに絶望して床の砂を嘗めたであろう。悪人ぶると云うことを誇る程、私は未だ幼稚で善良であったのか? 殺人の妄想は単に脆弱な心の強がりであったのか? 曲った心の敗け惜しみに過ぎなかったのか? 之が問題なのであった。と云っても、私は何一つ弁解しようとは思わない。自分はやはり、結局、こんな工合で中気病みを続けた丈なのである。
 その頃、私は自ら進んで、ある免職の小学教員と知り合いになった。事の初まりは、私が彼の落した財布を送り達《とど》けてやったと云う些末な点に過ぎない。けれども、私達は直ぐ親しく語り、連れ合って散歩する迄に友誼を進める事が出来たのであった。
 或る日――二人は約束に依って、裁判所の前で出会い、此の町で起った一つの大きな事件――朝鮮人の十三人斬り――に関する裁判を傍聴した。その小学教員は「社会から不当な取り扱いを受けた哀れな男が、如何に彼自身も亦社会を不当に取り扱うか。」と云う事の実例を求めるため、私は又私の流儀で、十三人の人を斬るには何んな決意と勇気とを要するかを知るために、耳を澄ましたのである。
 約《つづ》めて云って了えば斯うである。哀れな被告、高と云う名の朝鮮人は、裁判長のやさしい質問に対し、一気に答えるのであった。
「私は馬鹿者です。何故この日本へやって来たのか? それが分らないのです。いや分っている。故郷で義理の兄にえらく侮辱され、蹴飛ばされたんです。その有様を、私の恋している女が見て笑ったのです。それで日本が大変恋しくなって、そこへ行ったら、お金にもなり、やさしい人が待っていて呉れるように思えて、到頭、跣足になる程貧乏しながら、このお国へ渡って来たのです。それから六神丸と云う薬と翡翠とを行商して日を暮し、もっと悪い事もしながら、夜学で法律普通科を半分やりました。電車の車掌になってからは、日本人の女工を妻に貰いましたが、その女は私の子を妊んで呉れないのです。「何うか一人丈でも好いから生んで呉れ。」と願っても、女は唯笑っていて、やはり生んでは呉れないのです。私はそれが不思議で困りました。きっと私を愛していないのだと気づくと淋しくて、又帰郷したくなりました。斯んなつらい思いをしながら、私は妻の兄夫婦と一軒の家を借り、半分ずつ使って、半分ずつ家賃を払っていました。所が義理の兄は子供が二人もあると云う口実で、段々室を大きく使い、台所も自分等丈で使うようにシキリをして了うし、私が寝ていると、態とまたいで便所へ行き来し、その上、私の妻へ一人の男の子を抱いて寝かさせ、私は戸棚を開けてそれへ二本の足を突込んで寝なければならない程、場所をふさげられました。そんな事を忍べば忍ぶ程、兄夫婦やその子は私を馬鹿扱いにし、嘲けり笑い、私が卸した許りの手拭いで泥の手をふいたり、私の茶碗へつぶした南京虫を一杯入れたり、六神丸を無断で売って、その金を使って了ったり、私が買った炭を平気で盗み、その度に私へ悪口をつくのです。兇行の前の日、兄の妻が私の金だらいへ穴を明けて、知らぬふりでいるから我慢出来ないで、二言三言云い争いをしたが、その事を兄へ云いつけたと見えて、兄は醤油の壜で私をなぐったのです。血と醤油とに染って私は眼を開く事も出来ずに、唯暴れていると、兄の妻は口惜しまぎれに私の急所をつかんだので、私は気絶
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