事が出来るようになったのは何と云う厭な廻り合せだろう。
其の初め終りを話すのは私に取って愉快であるが、此の事件を惹き起す為めに、用いられた所の計略は何も私の独創ではない。私は少し許り知り合になった或る男から教示された通りを応用した迄なのである。
私は妹の方を一目見ると、それが姉の方より、遙かに私の慾を吸引するのを知った。それで姉なぞの事は忘れて、妹の方へ夢中になって了った。私は例によってバタバタと行ったり来たりした。生け垣の傍の石も前の女の場合と同じような状態であった。
「生け垣が似ているのは好いとして、おお何故石迄がそこに転がっているのだ!」私は恐怖もし憤怒もした。自然が余り趣向をかえて呉れない事が私の怨恨をかり立てた。
「畜生め! お能の舞台みたいに、何時でも松の樹がありやがる!」
私は石と生け垣の為めに今度の恋愛を尠《すくな》からず破壊された。以前にはこの上もなく懐かしかった其れ等のものが、今ではもううるさいような気がしてならなかったのである。けれど斯んな小さい事を気にするのは未だ恋に慣れぬ男である。何故ならば、郊外なぞに立っている家々は初めから皆双子同志のように似ているのだ……。
或る暗い夜、悪い運命の橋が筋交いに十字を切る所の私の室から、私と云う一つの蝋燭が消えたとする。だが、私は死んだのであろうか。思って見て貰い度い。私は橋を何の方角に向って走ったか? 運河の真中を、時計台の鐘が十二時を打つ時、その音の余波で動いて行く一つの舟で、灯が消えたなら、何が起ったのであるかを考えよ。死ではない。唯、死に似た様な強さの情事が想起されぬであろうか?
暗い水面へと続く、黒い大きな石段の様で、私の罪悪は何時初まったかが分明していない。下の半分は寧ろ影に過ぎない。そして水の様に冷かなのである。残りの半分は、前の半分の影で出来、過去に依って漸く色附けられる無色の現在、それが私の持つ現在であった。昔の劇場が今牢獄に変更されたとすれば、それが私の心なのである。
いや、私はもっと燈火の届く所迄這い出して、聴き手に顔を視せよう。私は斯んな醜い人間である。だが、彼の女等は恐ろしく美しかった。実際、彼の女等の為めに、大理石さえが愛嬌を見せて凹む程であった。誇張ではない。私は石の笑靨を経験した。私は元石の様な冷たい人間だったのである。私の心はもうアカンザスの様にフワフワと浮いて来た。私の周囲にはナポリの暖風が漲って来た。スリッパから飛び出した足の様に、私の気持はスガスガした。だが、それもほんの一時である。
考え度くない幾つかの事を、私は話さねばならない。
彼の女等の顔は何んなであったか? それは美しかった。だが別れて来ると何うも思い出せない様な顔であった。彼の女等は何んの特長も消し去った美しさで輝く。彼の女等は鏡の様に光って然も「無」なるものであった、私が彼の女等に近附いたとせよ。私は唯私自身の姿を見るのに過ぎないのかも知れなかった。然も此処に二つの恋愛が成り立ったのを思えば、鏡は何かしら性を持っていたのである。
ああ彼の女等の顔には変化がない。余り定まっている整いの為めに、忘れられ易いのだ。定住は無に似ている。雪が積もり過ぎたとせよ。もはや写真機を持って出掛ける必要はなくなる。後ろも前も一色の平坦! 何処へでも、坐って居る所から、レンズを勝手に向けるが好い。一と云う字が撮影されよう。それだ! 彼の女等はその一なのである。後ろ姿も横姿も見て廻る必要はない。山や森はポンペイの市街の様に下層に隠されて了ったのである。
だから本統の彼の女等を知ろうと云うには、何でも骨を折って、廻旋階段を降りて行かねばならない。其処に初めて廃墟の様な彼の女等の冷たい心が見出されるのである。彼の女等は精緻の替りに純野を持つ埃及彫刻と丁度反対のものであった。仕掛けの細かい贋造紙幣印刷機と同じで、結果を見ない間は精巧な一つの価値で輝くのが彼の女等であった。
愚昧の過剰から、私は彼の女等の頬へ、非現実的、骨董的な磨きを掛けて、自分丈の置物にしようと試みたが、花瓶には罅が入って了ったのである。もう之等二人は私につまらないものであった。私にはそれが口惜しくてならなかったが、人の力で何うとも治す術は見つからなかったではないか。
「女は矢張り詰らないものだ」
私は段々遠ざかった。それもこれも私が「木偶」だからなのか? 私は振子の響きに合してカタカタと場所を変えて行くパンチと云う人形に過ぎぬのか。
私はぼんやり街を歩いた。そして少しばかり知り合いの人に会った。
「君は未だ健康なの?」と私は不健全な問いを発した。すると私の相手も亦乗り気になって答えた。
「私はある理学者の弟子になったがね。お蔭で随分達者過ぎるよ。ウムそれに、近頃面白い事があったのだ。私の体はその儘で磁石の働きをするんだ。面白いじゃないか。私の腕に依って磁針の方角を変化させることが出来るのだ。何でも両腕が恰度両極になってるんだ。いや足の方にも同じ性能があるんだ。試験をした理学者も驚いていたよ。私位い強い磁力を持った男は少い相だ。ね君。人間は一様でない、と云うのが私の理論なんだ。」
知り合いの男は何でもそんな風に話した。私は細かい点をもう記憶していない。私が知っているのは唯自分の淋しさ丈であった。私は海岸を歩き乍ら涙をこぼした。それから暗澹たる夜空を眺めた。遠くに火事が起っているらしく、空の一点丈が赤く色づいていた。
「人間は一様でない? 馬鹿な! 別々のものが一つに見える。姉と妹とは段々似て来る。此の頃では嫉妬の喧嘩もしない。却って彼の女等は二人で慰め合い、二人で心を合せて私を怨んでいるのだ。別々のものが一つになったのだ。」
私は向う見ずに歩いた。と云うよりは足に体が引きずられ、体に足が引きずられて行ったのである。
暗の中にはもう一人別の知り合いが立って考えていた。そして何時もの通り、私をさぐるような目つきで近づいて来ると
「例のバタバタは何うなっている?」と問いつめた。知り合いの眼には悲痛な色があった。
「依然としてバタバタだ。」と私はうなだれて答えた。
「ああ悲しい事ではないか。それは現象自身がバタバタなのではない。君の心! それが大変傷ついているから起るのだ。同情、……君分るかね、同情だよ、同情を以て朝顔の蔓を見てやり給え。蔓の先にはカタツムリのと同じ眼があるのさえ分るだろう。バタバタは同情の欠けた所に直ぐ起って来る一つの破壊的な渦流なのさ。それは恐ろしい。人間がべルトやシャフトや電球のフィラメントやセルロイドの切り屑に見えてよいものだろうか。」
「私を此の上苦しめるのか?」私は夢中になってその知り合いに刃向った。勿論唯斯う書き流すと、その知り合いはダイヤモンドのようなものに思い取られ勝ちであるが、実を云うと、私の周囲には私を何時も戒めて呉れるある免職教員が実在したのである。それは事実に於いてはもっと自然的に私の前へ表れて来るのであるが、私は彼を恐怖する余り、闇の中で彼の声を不意に聞くような錯覚的な記憶丈より他に何ももたないのであった。
「君は冷静なのでない、苛酷なのだ。君は自然主義の小説家のように唯一面的に苛酷なのだ。老子のように柔しく広く無関心なのではない。獄吏のように首斬り台の音丈を音楽だと主張しているのだ。悲しいではないか。バタバタは狂気の一歩前なのだよ。おお、そしてあの火事を見たまえ。病院の方ではないか。」
「そうだ。」私は萎《しお》れて答えた。何がそうだと答えたのか? 勿論両方の話し、即ち私が何うしても苛酷な事と、火事の方角が病院の近くである事の二つに対してである。
罪は常に他の罪から起る
急に新らしい事件である。
火事! そして燃え上っている。病院が焼けて倒れる。それが何よりも明らかな事実であった。
それは未だ良い。悪いのはもう一つの事であった。火事が厳密に検べられた時、私の妹丈が怯えて答えを曇らした。ああ、そして、何たる運命の狂いであるか。妹の行李が荷造り迄されて、病院から遠い物置に隠してあった事実が発見されると、眼の早い警官達は、妹に放火の疑いをかけた。
「妹! お前がやったのか? そして、昼間の中に自分の行李を焼けない所へ持って行って置いたのか? おお、それが低能の証拠なのだ! 何よりの印なのだ。」
私は悲愁と絶望と低能な妹の代りに受けねばならぬ責任感とで、体を折られるようなつらい思いを味わった。
「兄さん。仕事がつらくてね。病院を焼いたら家へ帰れるかと思って……」
「それが低能な女の考えなのだ、世間に好くある例の一つなのだ。」全く読者よ。低能な女は他の低能な女の精神をまるで模倣でもしているようではないか? 一ケ月新聞を読み続けた人は必ず如上の実例を二つ三つは見掛けるに相違ない。然も何うであろう。妹は全く独創的に此の犯罪を犯したのである。之が白痴に取って最大の発明なのか? そして、馬鈴薯からは馬鈴薯が出来ると云う悲しい事実を語っているのであるか?
妹の裁判は大変に厳しかった。そして精神鑑定係りと呼ばるる自痴に近い医師は彼の女が白痴と見なさる可きでない事を主張した。(之は東京から遠い地方の事である。東京の裁判所では多くの医学博士が何かしらをしていて、犯人が白痴であるか何うかを、色々と相談する。そして、彼等は博士なのである。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
妹は九年の懲役と極められた。
私は何んなに沈鬱な日を送ったろう。そして何んなに妹のための罪減ぼしとして、善良な仕事と行為とを望んだであろう。此の悲しい動機に依って、私は徐々に正しい道を踏む事が出来そうになって来た。
そして私は正直な人間に改まったか?
否又しても大きな障碍は持ち来された。
火事の際に焼け死んだ看護婦長の黒焦になった屍体を何時迄も記憶から除く事の出来ない私に取って、婦長の実弟である若い薬剤師と時々顔を合せるのは随分とつらい刑罰であった。私は彼を見ると釘附けにされたように血が凍り、冷たい沼の底へ落ちて行くような慚愧の念でなやまされた。ある時の如きは、狂気になったように、その弟へ縋り附いて、私は地面に坐った儘、許しを乞うた事もあったのである。
「あの白痴娘の責任は全部私に転嫁されているのです。あれを怨まずに、私を罰して下さい。私を……」
「いや、人を怨む必要はないのです。犯罪は常に一種の過失ですもの。」諦め深い若い薬剤師は人なつこく私を慰撫した。
「けれど、貴方は内心思っていらっしゃる、他の事を! 他の事を!」
「いいえ、之丈です。貴方の妹は寧ろ罪がなさ過ぎた。それが今度の過失の原因なのです。」
「貴方は何かしら私と別の考え方をしていますね?」
「そうです。探索している内に、段々と真相が別って来たのです。」
「真相?」私は直立して斯う叫んだ。
「そうです。もっと検べたら、一層真実となる所の真相です。……妹さんは単に仕事がつらい丈で火を附けたのでしょうか。え? 之は可笑しいです。いや、此処に何か秘密が隠れて居そうではないでしょうか。妹さんは力の沢山ある、そして労働をいとわない質の女であったのを私はよく知っています。それが急にナゲヤリな気を出し、仕事をなまけ初めたので、私も実は不思議に思っていたのですが、すると間もなくあんな大事をやってしまったんです。」と薬剤師は声をひそめた。
「何故妹は放火の以前、なまけだしたのでしょう。病気か過労かに依るのでしょうか?」
「其処です。勿論労れているようではあったが、病気とは見えませんでした。此の機会に貴方へ話して置きますが、妹さんは恋――たしかに恋のようなものをしていたと推定せねばなりませんよ。」
「それは過ちでしょう。第一相手になる男がないでしょう。」
「いや、男は意地の汚いものです。そして恐らく女だってね……」
「では妹は懊悩のために、仕事をなまけていたのですね。」
「恐らくそうです。」
「相手は……妹の相手は一体誰なんですか。」
「私は断言しますが……それは院長と、それから次には院長の子息ですよ。」
「
前へ
次へ
全15ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松永 延造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング