長は口を尖らして呟くと、抱えていた壺をゆっくりと床へ下し、再び私を柔和に打ち眺めたのである。
「その壺は……」と私は段々声を細めた。
「何でもない……」と院長は自分の身体で壺を隠すようにした。
「院長さん。貴方は私を何うかなさろうと云うんですね……」私は怖え乍ら辛うじて之丈を早口に云い終った。けれど未だ何も云わない様な気がしたので、もう一度少し声を力づけて、「院長さん! 貴方は私を殺す気じゃないんですか?」と本統の所を口走った。私は本当に死の予感に打たれたのである。
「お前の言葉は何時も誇張的で困るよ。私は本統に誤解されるのが苦しいのだ。」院長は之丈云うと歩き労れた旅人のように寝台へと崩れかかって来た。私は一層心を緊縮させて、院長がブカブカに緩い寝巻の下から毒薬でも出しはしないかと眼を見張った。ああ、此の紫色の室は他の人の居る室から遙かに隔っている。私は何よりそれを恐れた。そして院長が私を此の室へ寝るようにさせたのは矢張り未知の目的の為めであった事も察せられた。だが問題はそんな点にはないのである。
「しまった!」と私は歯を喰いしばった。私は一つの兇器をも此処へ運んではいなかったのである。いや、慌てた私は咄嗟の間に何も考えたのではなかった。
「それは確かに……」と院長は案外打ち萎れて何事かを語り出した。「確かにだね。二人の人間がずっと他の目から隔離された所で一緒に居るとだね。相手に何か害を加えてやろうなんて心を起し易いものなんだ。他の多くの眼からの隔離、それは実に驚く可き恐る可き悪化を齎らし易いものだ。」
「それで……」と私は力を入れた。
「いや、お前はいけない。殺すとか、殺されるとか、そんな動詞を容易《たやす》く使うのは好い事ではない。」
「そうです。そして云うのではなく、その行為を実行するのは更に悪い事です。」 と私は少し巫山戯《ふざけ》て云った。何故なら私は院長の挙動に何の悪意も見えないのが分って来たからである。とは云え私に何が分ったのであろう。
沈黙が続いた。院長は堪えがた相に頭を拳で叩きつつ室内を歩き廻った。私も静かに口を閉して、院長が何んな事をするか、じっと注目した。勿論、息のつまる注目である。
「……私は……」と彼は軈《やがて》て思い余るものの如く口走った。「私は此の頃、悪い悲痛に取りつかれている。お前にそれを察して貰いたいのだ。」
私は不思議に感じた。斯んな老人と云うものは、決して若い者へ自分の弱身を表わさないのが普通であるのに、何うして彼は斯んなに老人的高慢心をなくして了ったのであろう。
「ね、お前、私は妙な癖に落ちている。一つの悔恨を想起すると、直ぐそれに関連して他の悔恨が、又それに引っかかって、更に古い悔恨が出て来る。斯うして三分の間に一生の悔恨が塊りになって私の心を押したおし、何が何だか分らない総括的なつまり象徴的な悲痛であたりが真っ暗になって了うのだ。」
私は以上の言葉に正直な注意を向けた。そして院長が少しも偽りを云っているのではないと云う直覚で院長へ同情した。然し不思議ではないか。何故院長は不信用な私へ向って斯んな懺悔を敢てするのか?
私は一つの推定法を知っている。若し女が自分の悲しみや苦しみを一人の男へ訴える場合がありとすれば、その悲苦が何んな種類のものであろうと、結局彼の女自身の恋愛を打ち明けているのだ。
若しも院長が女性であったなら、彼は明かに私へ恋を打ち明けている事になる。彼は静かに足を忍ばせて私一人の居る室へ来た。そして、誰も聞かぬ所で、私に彼自身の悲しみを話しているではないか?
私には分らなかった。分る訳がない。
「先生は私にその悲しみを打ち明ける為めに、私を此の室へ眠らせたのですね。それが本統の目的で、私の頭を平静にさせるのなんか、二の次若しくは三の次なんですね。」私は快活に笑った。
「いや、そう思われては困る……」と痩せた老人は皺だらけな笑い方をした。そして泣き相に興奮して私を見詰めた。それらの行為は皆決して尋常ではなかった。何かしら秘密が影を造って、我々の間を暗くしていた。
「それは……お前は可愛らしい。それに相違ない……」と軈て彼は独語する如くに云い捨てた。「けれど、お前が可愛らしいから、私が悲しみを訴えると思い取っては困る。私は色々のものを恐れるが、その中でも一番誤解を恐れるのだ。」
此の言葉は私を一驚させた。他の目がない所で、一人の相手に悲しみを打ち明けるのは、恋を打ち明けるのと同じだと云う推定法を此の老人も心得ていたのである。
「奇態ですな……」と私は一人で云った。
「全く、奇態と云っても……まあ好いだろう……それに近い。」と院長は無茶苦茶に答えた。彼は又慌て出していたのである。
「例えば此の壺だが……」と老人は稍悲壮な表情になった。私も眤《じ》っと壺を睨めた。私の興味は俄かに動いた。何故なら私は骨董品が大好きであり、その為めに段々と奥深く入って、斯う云う趣味が矢張り悪と同じであり、又此の趣味が私の悪心から出ていることを悟るようにさえなったのである。(之は一般の骨董品愛好家には当て嵌まらぬ説であるが、私に丈は適切なものであり、又私自身が経験から割り出した思想なのであるから、私丈には間違いでない。モルヒネ中毒者や変態性慾者、精神病者、悪人それらの人は主に小さく部分的な人工美を愛する傾向があり、愛情の広い人、ゆっくりと落ち着いた博識の哲学者、農夫、健康の人等は遠く広く、やや粗雑な広角的な自然美を愛する性情を持つと云う点は私が態々主張する迄もなく一般の事実である。たとえ時々例外はあっても、その為めに如上の通則が全然破れる事は出来ないであろう。もう一度云う。悪人は近視的であるが、その眼球はアナスチグマットレンズのようにシャープである。善人は遠視眼である。それで、遠くの地平とか天空とか云う大まかなものをデテール抜きにしてぼんやりと鈍感に眺めやるのである。そして之等の規則は半分許り真実である。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
「此の壺を何う思う……」と老人は首を下へ向け、胃を縮めて貧相に尋ねた。
「奇態な壺ですな。」と私は改めて検べた。高さ二尺程の素焼である。其の他の何者でもない。
「此の唐草文をお前は何う思う。」
「それは飛鳥朝の時代のものですか?」私は此の方面に少し暗かった。
「之はアラビヤ文様だ……」
「先生はそんな事迄知って居るのですか。」
「検べれば分る。分らないものだって、分って来るさ。覚えて置きなさい。今に色々の事が分って来るから。」
「ですが、之には支那文様の趣きがないとは云えませんね。」
「それは寧ろ支那がアラビヤの感化を受けたのだろう。」
院長は壺に就いての説教でもう夢中になって来た。私は此の老人の心持が殆ど解せなくなった。何うして彼はそんなに夢中にならねばいけないのであろうか。彼は何でも、自分の家の庭で之を掘り出したと云っている。そして、彼が之を黙って自分の手に入れて了った事を誰一人知っていないと云っている。然も此の二尺程の器の中には人骨が入っている。彼は臆病な手つきで、それを拾い出して私に見せたのである。
最後に彼は思い出して云った。
「もう時間が過ぎた。」そうして壺を抱えると、悲痛な足どりをして紫色の室を去って行って了ったのである。
私は独りになってから一層興奮した。眠れぬ眼を大きく開くと、沈思しつつ室を歩いた。
「そうだ。あの壺には何の訳もないのだ。院長は恋を打ち明けそこなったら、あの壺でも見せて、それを室へ忍び寄った理由にしようと用心して来たのだ。」此の考察は正しい如くに見えた。何故なら、彼は帰りしなに斯う云ったからである。
「……此の壺は秘密にして蔵ってあるんだ。それでないと警察へ取り上げられて了うんだ。人の骨が入っているんだからね。それで誰にも見せないんだが、まあ、お前丈にはな……」
私はそんな壺を見せて貰える程に、院長から好意を持たれているのが、矢張り厭であった。壺の中の人骨を見た事、院長が室へ侵入した事、之等の不快な事実が私を粗暴な感情へと導かずには置かなかった。「畜生! 私は……あの婦人病患者と関係してやろう。」腹立ちまぎれに、そう決心したのは其の夜の明け方であった。私は割合臆病な人間であったので、私が一つ悪事を働く前には、必ずそれを起させる誘導的な凶事が先駆せねばならなかったらしい。院長に心を乱された事が私を再び悪い情熱へと追いやって行ったのである。考えれば、皆壺の骨に根本の罪が秘《ひそ》むのであった。
木偶流動
私はその後も出来る丈心を平静にして、むしろ沈鬱な日を過した。其の間に起った不慮な事件は幾つかを数え出される事が出来よう。けれどその中で一番大きな二つを選ぶならば院長の急死と、院長の子息の怪我であった。斯う並べると人間は全くヒ弱い構造を持ったものだと云う考えで悲しまされよう。だが其れに間違いがあろうか。大体の事を話せば、子息の方は今迄何処かの水産講習所や臨海実験場へ行って居たのであるが、最近に海岸の漁師達と知り合いになって、彼等が漁に出る時、その舟へ同乗させて貰ったのが悪かったのである。此の漁師達が或る魚の大きい群を見出した時、他の側に居た漁船も其れを見附けたので、両方の漁師は到頭舟を接して殴り合いを初めるに至ったのである。院長の子息は一緒になって、殴ったり殴られたりしたが、終いに頬骨を打たれて気絶したのだと云われている。斯う書いて来ると人間が全く木偶のように思えてならぬではないか。実際人間は振り子の調子につれて、カタカタと動きパタリと倒れる木偶《でく》のようではないか。私は自分が以前あの例の娘を見初めて通いつくした頃もそんな考えに苦しめられたものである。私が歩いて行くと、娘の方も表れる。私が近附くと向うが隠れ、私が遠のくと向うがバタバタとついて来たのではないか。
「畜生。」此の頃でも私は自分を木偶以上に進歩させたとは思えない。現にあの婦人病患者がバタバタとやって来る。私はそれが心に響く。ガタガタと動く漁師の喧嘩場が眼の前に浮き上がる。愛するために近づき合い、争うために吸引し合う其れ等の事象は意識もなにも持っては居ない自然現象のようではないか。
若い人達が内省的な心理学をきらって、唯表面の変化丈を観察し、検定する事で、外面的心理学を樹立させようといきまくのはきっと彼等も私と同じような「木偶感」に縛されているからであろう。一切の形容詞を抜き去り、出来る丈動詞を多く使って日記を書き、或いは小説のようなものを書こうとする人があれば、彼も亦「木偶感」に憑かれている事が直ぐ分る筈である。
院長は、バタバタと死んでしまった。この情景は唯スクリーンの上の映画に過ぎない。うしろへ廻っても霊なぞを踏みつぶすような危険もなにもありはしない。之は何だか厭な事実ではないか。ふり返って見ると、彼の残したのは莫大な借財丈であった。鼻柱の折れた子息は寝台の上で落ち着いては居られなかった。彼は振り子のように寝返りを打った。令嬢は兄を気づかったり、私を懐ったりして唯廊下を足音で響かせていた。
「何がバタバタだ。畜生共!」と私は時々独語せねばならなかった。
病院は愈よ維持の困難を感じていた。院長はあんなに大きな借財をして居乍ら、何うしてあんなに呑気にしていたか? 此の点は私の大きな疑問となって残った。ことによったら彼は自殺して了ったのではなかろうか? 此の疑念は死を残忍視する私にとって当然のものであらねばならぬ。
私は病院に飼われていた間中、遊び通していた訳ではなかった。へり下った心で受附け掛りもし、薬局へ入っては坐薬をねったり、消毒ガーゼを造ったりして働いていたのである。けれど院長が死んで、子息が暗い顔をしているのを見ると、もはや私が此処に留まる事はよくないように思われた。気の利いた私は半分無断で病院を去った。そして子息は大変にこの事を喜んでいたと私丈で推察した。
三ケ月後、私は到頭あの婦人病患者――もう治って太り返っているが――と関係して了った。けれど、それと同時に彼の女の妹とも関係する
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