た。手紙を呉れた日から不意にたずねて行かなくなった為め、娘は何んなに気をもんだであろう。泣く為めに熱が出る。熱のために咳が出る。咳くたびに命が縮んで行ったのだ。私は何と云う悪いいたずらをして了った事であろう。あんな楽しみさえ殺人の一種であったのか? そして、それは何と云う殺人であったろう。(おお余りな事だ)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
私は愛らしい娘を殺した。愛らしいので殺して了った。此の考えが私の恋愛をさらに燃え上らせた。私は苦しく笑った「愛が死と結びついた所に、何だか至上の強さがあるようではないか。それは強い。そして緊密である。」
紫の室
何故院長は罪深い私を養って呉れるのであろう。思って見るに、それは彼が犯罪心理学や法医学の研究家であったからであろう。彼は私を利用して博士論文でも書こうと云うのではないだろうか。事実、彼はたえず私の挙動を監視し、又私を心理検査にかけ、あるいは感想を尋ねた。第三の場合に於いては、利巧な私は自分の罪悪を犯す心理状態や、制しきれない獣的な悪意、本能としての残忍性の発作なぞを説明してやった。
院長は感極まってそれを聞いていた。彼の顔は段々低くなって、しまいには机へ顎がついて了う程になった。彼は私を実際よりも以上な大悪人と推断して了った。私を尊敬した。彼はまるで遠ざかるような態度で益す私に近づいた。彼の眼は何時も「お前は偉い男だ。」と云うような讃嘆の色で光っていた。ある時はまるで私を崇拝さえしていたようであった。勿論皆馬鹿な事である。
「お前はどうしてそんな綺麗な顔をしているんだ。悪い奴と云うものは大概頭蓋が曲っていたり、顔が横の方へひねくれて、歯が大きくて長く、眼球が上釣って、ドロンと濁っていながら、然も何となくギロギロしているものなんだがなあ……」と彼は或る夕方嘆息して云った。
「先生は色魔に就いて何うお考えですか?」と私は初めた。「気性の悪い奴だのに、何処へ行っても女に好かれて了うような男がありますが、それは何故でしょう。」
「女にはそれ自身で悪を好む性向があるからだろう。」
「それに違いありませんが……然しその思想に依りますと女があまり可哀想ですね。何にせよ、悪が美と結合している事は一つの微妙な不可思議です。そして悪心と美貌とを持ったものの仕合せったら……それは比べるものがありませんね。女達は丁度それを愛慕します。女を得るには釣り道具も何も要らないんですからなあ。」
「成程……」と院長は気味悪相に顎を机に押しつけて了った。
「私の考えに依るとですね。強大な悪はそれ自身で病的なものです。しかし、或る程度の悪になりますと、それは生存上必須の要件なのですね。それで自然は斯う云う健康な正規的な悪を成可く絶滅させないために、随分と骨折っていると云う事が分ります。優秀な理性が一番遺伝しにくいものだと云う事実を先生は何う思いますか。」
私達は斯んな風に話したものである。私は先生の好い伴侶であり、思想上の相談役であった。院長は私に感化されないようにと思って、随分努力もし、体や頭を洗ったりしていた。けれども私の説明をその儘論文の中へ書き込むのは偽りのない所であった。
私はそれでも好い周囲を恵まれてから、段々と怨恨や不満を抑制するように努力し初めて居た。悪い心が起ると、静かに書見などをして気を散らす方法を覚えるに至った。私は自然、自分の幸福を感ずるようになり、古い悪事を想起する事で心を痛めるようにもなった。自分が精神上の片輪であると云う意識が眼覚めてからは、何うかしてその片輪を治そうとする欲求で心を一杯にしていた。だが一体何がその結果であったろう。
此処に又いけない支障が起って来た。私はあるアバずれな婦人患者に思いを掛けられ初めた。女の愛欲が私の心に響くと、その反応が浅間しく私を焼いた。私は恋を感じ初めた。それに伴随して残忍な気持がたえず行き来するのは一体何う云う訳であったろう。私はその年上の女が憎いように思われ、それをいじめてやろうとする欲望で一杯になって居た。私は興奮すると直ぐ残忍になった。その年上の女ばかりではない、院長の令嬢も私を大分好いているのが私の心へ響いていた。彼の女が色眼を呉れる事、肱を触れる事等が私に可笑しく思われた。けれど彼の女は未だ耐える力を失ってはいなかったらしく、又私が罪人である事や、妹が白痴であることから、私を恐れ嫌っている風でもあった。
「低能は筋を引くものだ。」彼の女が斯んな風に考えているのは私にも充分分っている。彼の女は風のない静かな夕暮なぞには妄想の深みへ入って、自分の胎内に低能な児が哺くまれている有様なぞを見て驚いたりするらしかった。彼の女は或る時私と一緒に病院の標本室へ入って見た事がある。アルコール潰になった長い男性の脛などが白くフヤけて、罎の底へ足の毛が抜けてたまっているのが私を大変不愉快にした。それから或る無頭児の罎詰の前迄行くと、令嬢の顔が不意に歪むのを私は早くも発見した。
「畜生! この女は低能児をはらむ恐ろしさを又しても妄想して悩んでいる。」と私は腹の中で叱言を洩らさなければならなかった。
二人の女性が私を注視しているために、私は何時も気が落ち着かなくなり、勢い挙動も荒くなり勝ちだった。勿論注意深い院長は私が心を労らせている原因を見て取らずには置かなかった。
「私は外囲が心へ及ぼす効果と云うものに就いて、大きな興味を持っているのだ。何うだね。お前はあの紫の室で少し暮して見ないか。きっとお前の心がよくなるから。」善良な院長は浮かぬ顔をして斯んな風にすすめた。紫の室と云うのはヒステリー患者を治すために院長が業々《わざわざ》造ったものであって、その中央に小さな噴水の出来ている静かな落ち着のある室であった。四方の壁も寝台の足もその他の装飾も全部紫色を以て塗られてあった。
私は元来紫色が大変にきらいであったから、此のすすめを何うかして逃れようと思案した。
「先生は紫色が人間の悪心を矯正するとお考えなのですか?」
「さあ……少くとも橙色よりわね……」
「子供の中に黒い部屋で育ちますと、その黒がしん迄沁み込みます。けれど大人になって紫の部屋に入っても、黒の上へ紫はそまらないでしょう。」と私は沈んで答えた。
「しかし、まあ、入って見なさい。何か効果があるかも知れないから……」
以上の会話はまるで虚言のように態とらしく見えるかも知れない。けれど全部事実であり、院長の呑気に近い優雅を證拠立てる好い材料の一つであろう。人々は如何に思うか。世間の学者達は熱心に悪人を矯正しようとして考え、骨を折っている。然も紫色の室以上のものを設計し得ないのは大きな悲しみではなかろうか。
私は何時も思っている。「幼いものをつまずかすのは、老人の足を切り取るよりも、もっと悪い事だ。」と。紫色の室が役に立つのは、其処へ入るものの頭蓋骨が未だ小さく柔軟な場合である。
私は紫色の室内に眠って深い悲しみに閉された。私はもう駄目である。此の静寂が身に沁みて痛い。私はしまいに耐え切れなくなって、理由もなく増大する涙の粒を落した。
夜の戯れ
多くの病気に向って、紫色が好い影響を働く事を、英国のスノーデン博士が考えていた。そして主唱者の墜りやすい通弊として、彼もその影響の効果を過大視していたようである。我が院長に至ってはまるで誇大が狂的に迄進んで、私を嫌いな色でせめさいなんだ。彼は私の悪心を紫色で包み隠そうとしたのである。けれど彼は本統にそんな馬鹿気た望みを三分でも持ち続け得たであろうか? 私には何うしても院長の心持を洞察する事が不可能であった。
私は不眠癖に苦しめられ乍ら、毎夜を紫色の室で大人しくしていた。同じ色の絹で蔽われた燈光が、同じ光に見える音のない小噴水の水しぶきを柔らかく照した。何一つ落ちていない床の上の広い淋しさが真夜中になると一層広がった。私は何うかして眠ろうと願って、あの観無量寿経の中にある一つの静視法、即ち落ちる日輪から水晶の幻影を生み出す事を考え耽るのであった。だが、話したいのは更に別の事である。
その時であった。実に、物静かな空気が鼓膜に感じない前に、皮膚へ感じる程度の振動を起したので、私は忽ち我に帰って耳を立てた。
足音である。人の来るけはいである。室外の廊下に思い余って、誰かが立ちすくむ様子らしい。だが、事件はもっと別の事である。
誰であろう。女であろうか? 女ならば誰であろうか? 之が私の無言の質問であった。
「あれかも知れない……」と私が推定した当の人物は矢張り女性であった。彼の女は何時も私の眼に何物かを読もうとして焦躁しているのが分っていた。私が一寸戯れにやさしい顔をすると、向うは却って真面目に怯えたりした事もあるその女と云うのは独身の看護婦長であり、女の癖に極く慎ましい方であった。従って幾らか物識りのように見えた。彼の女は何うかして私の口に「恋愛」と云う言葉を上させようとして骨を折り、色々の導火線へ火をつけて見ていたのである。彼の女は胸の中で「私達はもう恋を仄かに感じ合っているのだ。唯お互いに内気だから打ち明けずにいるのだわ。」と云う一人定めの思想を抱いているのが確かであった。女は早く私から「甘い苦しみ」と云う奴を打ち明けて貰おうとして、もう夢中になっていた。始終自分の服装を替えたり、歩きつきを誇張したり、つまらぬ事に驚きの声を発して見たり、フンフンと鼻を鳴らしたり、一人で海岸へ行くと云ったり、森へ行くと云って出掛けなかったり、態々犬を私のそばへ連れて来たり、鸚鵡にものを云わせて見たり、風呂に入って香水をつけて来たり、腕をまくってムク毛を口先で吹いたり、子供の時に出来たと云う小さく愛らしい腫物の痕を見せたり、生ぶ毛の話をしたり、或はもっと精神的な方へ材料を代えて、ラファエルの運命の三女神中何れが魅惑的かと尋ね、ゲーテの艶福を評したり、態と椅子をガタガタさせ乍らベトーヴェンが悲劇的な男である理由を聞いたり、(その癖答えなぞは聞いてはいない。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]その他あらゆる誘惑の機会を造り出そうとしていたのであった。そうだ。下らない事の極みである。
「そうだ。あの女に相違ない…‥」此の考えは私に取って甚だしく不愉快ではなかった。唯もう少しあの女が美しければ好いのだが、と云う嘆きがなかったならば……
扉の外では頻りに空気が動き、又留った。若しあの女ならば出来る丈からかってやろうと云う悪心から、私は寝たふりをして声なぞは決してかけてやらなかった。けれど年がさの女は大胆である。苦しい胸を打ち明けるために、此の離れて静かな室が最適なのを知るのであろう。そっと扉を動かして、中の様子を窺うのが私の背中へ感ぜられた。私は寝返りを打つ事も出来ず、息苦しい気分になって、顔を皺めた。私はもう戦いに敗けたようであった。
足音は静かに室内へと移った。そして私の寝台へ向ってゆっくりと進んで来た。私は心を締められるように緊張した。そして名状しがたい畏怖の念でガバと起き上った。振り返って、足音の主を見詰めた時、私は到頭、
「アッ!」と云う声を絞り出した。足音の主は四囲を見廻し、私の叫びが決して遠い室々へ迄は達《とど》かぬのを推察した。そして、
「静かに……」と手で制した。「驚くことはない、驚く事は……」けれどその声は少し慌て気味であり、自ら怯えているようであった。一体何事であったのか?
其処に立っているのは確かに院長であった。然も平常の院長ではない。その点が私を脅やかした大きな原因であった。彼は異人風の寝巻を長々と着、房を垂らし、それから哲学者が冠り相な夜帽を戴いていた。私は斯んな院長の姿を見るのは実に初めてであった。それ許りなら未だ何でもない。彼は片手に大きな壺を抱いて、平常は青い顔を真紅にし、私を眤っと見下していたのである。この妙な行動の半分が狂気から出来ていないと誰が云い得よう。
「何うなさったのです。先生……」と私は呆気に取られつつ小声で云った。小声にである。
「いや……」と院
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