のえ、新しい行李をも担ぎ込んでやった。
「では、働いてお呉れ。」私は涙をこぼして低能な妹を見やった。妹はもう子供のように泣いた。
 本統に斯んな哀れな娘は生きていない方がよい。何うかして早く死んで了う方法はないであろうか、と私は可愛さ余って呟いた。妹は続けざまに泣いた。私が病院の裏口を出ると、追いかけてかじりついた。私は妹を抱き上げて門の中へ入れねばならなかった。けれど私が逃げ出すや否や、異常に太っている妹の腕はもう私の首へからんでいた。私はぞっとなった。その腕をもぎ離すと、今度は地面へ坐って、私の足へからみついた。私が構わずに歩き出すと、彼の女は平気で引き擦られて来た。私は又妹を抱いて病院の門内へ入れた。
「許して呉れ。」と私は泣いた。
「アア兄さん。」と妹は口を開いたまま涙を落した。
 私は妹の執愛の深さを無気味に思って、「死んで呉れると好い。」と呟き乍ら大急ぎで妹から別れ去った。
 四十二円の金は二十一円丈私の手に残っていたが、私はそれを少しずつ喰い減らして行った。最後の一円丈が軽い財布の底に見出された時、私は思い切って一つの商売を初めねばならなくなった。その商売は犬殺しよりも少し勝っているように考えられはしたものの、決して正当なものと云う丈の価値はなかった。
「大きい悪事よりも、小さい悪事を……」と私は云いつつ、知り合いの卵屋へ走り込んだ。私は其処で非常にまけて貰って五十銭丈青島卵を買い入れた。古くなっている為めに表面が象牙のように光沢を持って了った三十五の鶏卵を、私は悪い巧みで体中を顫わせつつ見入った。何故私はそんなにイジけた質なのだろう。
「この光沢がいけないんだ……」
 残りの三十銭は一体何の為めに費されたであろう。私は薬種屋へ行って三種の薬品を買い入れた。それらを上手に調合し、薄い溶液にしたものへ、光沢のある鶏卵を浸すと、一時間程でツヤ消しが完了した。
「ハハハハ之で宜敷い。」と私は大哲カントのように独語した。おお何と云う好い器量の卵達であろう。ラフなブロマイト印画紙のような肌は、もう近在から出る地卵とそっくりであった。
 軈て私は若い農夫のような出で立ちをした。そして父の土地から遠くさすらって、他の都市へと行った。
 郊外には主人が留守で、美しく若い夫人丈が淋しく子供に添乳なぞをしている家が多い。私はそんな家の扉口へ立つと、大きな笊の上を蔽った手拭いを取り去り、丸顔の少女のような鶏卵を主婦達に見せびらかした。
「おかみさん! 地卵を買ってくんなんねえか。新らしいだよ。皆生れた日が鉛筆で印してあるだが、」と私は実直に云った。
「いやだ。いらないよ。」と若い女は答えるのが普通であった。
「でも此の上皮の工合を見て呉んろ。新らしいだよ。俺の爺さんが道楽に鶏を飼ってるんだからな。餌代丈になりゃ好いだよ。安くしとくだ。店で買えば七銭から八銭迄するだ。俺あ五銭で置いてくだ。」
 夫人は何気なく起き上った。そして卵の肌へ手を触れて見た。彼の女は自分の可愛い子がもう卵を食べてもよい程に育ったのをつくづくと感ずるらしく、思いやりの深い眼で眠っている幼子の方を見やったりした。
 斯うして卵は直きにかたがついて了うのであった。私は時々自分の身をツメって叫んだ。
「ああ罪だ。罪だ。あの卵の中、三分の一はもう腐敗してるだろうに……」
 けれど私は何うしてもやめられなかった。それで、一日五十個以上は売らないと云う戒律を立てて、此の商売を続けて行くのであった。そして悲しい事に、こんな新らしい悪事が何でもない習慣に変じて行った。

   初めが終り

 ああ此の商売を何処迄も続けて行けたなら、私は何んなに都合よく暮せたろう。けれど例の通り遂に一つの支障が起った。私は一人の美しい娘に見惚れて了った。それ丈の事である。だが何と云う美しい娘であったろう。それを何う説明してよいかが分らないので私は苦しい。あの洗われたような娘はいつも苦しそうに肩で息をする癖があるが、決して妊娠をしているのではなかった。いや彼の女程に純真な処女が又とあって好いものだろうか。序でに云いたす事だが、私自身が大変に毛の薄い男であった為か、私は毛の多い女を此の上もなく好んだ。そして丁度その娘と来ては髪の毛が沢山で長かった。その癖、うす鬚なぞは一寸も生えていなかった。(実を云うと鬚が生えて居ても毛の多い女の方が私は好きであった。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]つまらなくとも聞いて下さい。
 私は此の娘を毎日見ていないと悩ましい気持になった。私は娘の居る都市から他の都市へと移る勇気がなくなって了った。私は到頭一つの場所へ居据るようにさせられた。
 何うしたらあの娘と関係をつけることが出来るだろう。それを思い廻らしては一日が早くのろく過ぎた。郊外の大部分を私はそんな風にして卵を売り歩いて了った。あんな卵を二度繰返して買って呉れる主婦は決してないであろう。
 私は考え労れてはあの娘を見に行った。私はその時出来る丈上品な身なりをして、汚い卵屋とは似ても似つかぬしとやかな大学生風な青年になりすました。そんな事は私の得手なのである。
 娘は私が毎日彼の女の家の廻りをまわるので、もう好く私を記憶し、注意していた。彼の女は私を悪い人間だとは疑っていないらしかった。何故ならば、彼の女は私の事を母親へ告げないでいるのが明らかだった。(娘と云うものは自分の好かない気味悪い男の事は直ぐ母親に告げて助けを乞うのが常である。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]娘は段々と私がしたい寄って行くのを待っているようになった。私が出掛けて行く時間を遅らすと、彼の女は心配して外の生け垣へもたれて立っていたりした。けれど私が近づくと彼の女は未だ恐れているように庭の中へ逃げ込んで、樹の葉の間から私を窺った。娘の息がはずんでいる事は、彼の女の眼が落ち着いていない事で直ぐ推察されるのであった。
「おおあの娘は私を思っていて呉れるのだ。何て世間は上手に出来ているのだろう。私達はもう思い合っているのだ。眼丈が体の他の部分より一足先に交際を初めたのだ。」
 斯う云う野合の楽しみときては人生の中で最も大きいものに相違ない。自分の友人の妹とか、主人の娘とか、召使いとか云ったふうな女たちとの恋は未だ中々本統の恋と名附ける事は出来ない。そんなのはむしろいたずらな機会が生んだ無意識的な退屈しのぎに過ぎまい。
 娘の方でも私に焦れている。二人が我慢して、眼を見交している。之は実に胸がつまる程嬉しい事件ではないか。何うしたらあの娘と関係出来るか? その謀みで私は夢中になり初めていた。大胆にやり過ぎれば娘を脅やかして了う。小胆にしていれば、何時迄もあの娘を手に入れる道がない。だのに娘はもう待ちぬいている。手に入れて呉れと嘆願している。そして運命もそれを要求している。神も微笑み乍ら見て見ぬふりをしている。私は何うしても思い切ってやり遂げねばならないのだ。そう思うのは何と嬉しい事ではないか。やり遂げれば成功するにきまっているのだ。
「畜生め!」と私はこみ上げるむず痒さを押しこらえた。もう嬉しくってたまらなかった。それが悪いと誰が云おう。
「よし今日こそは思い切ってやり遂げよう。」私は誰もがするように、手紙をかいた。それを一寸甞めて、大きな秘密のように業々しく胸へ抱き込むと、私は又娘の家へ近寄った。門口に立っていた娘はオドオドと慌てて、おくれ毛をかき上げたり、帯の形をなおすように、うしろへ手をまわしたりした。ああ若しも私を嫌っているなら何うしてあんな風にする事が出来よう。娘は私を偸み見ては、少しばかり恐ろしそうに天をふり仰いだり、地面の草を摘む真似をしたりした。然も草の方へは気が行って居ないので、その茎を指でおさえても、摘み上げる術さえ知らなかった。もう娘は慌て返っていた。草を手ばなすと、今度は庭の樹の幹へ顔を押しつけて、じっと私を見た。私は此処で微笑んで見せようかと思ったが、用心深くそれを控える必要を感ずると、態々悲しそうにうなだれて、生け垣の前を通り過ぎた。それから又、もう本統に恋の悩みで面やつれているように弱々しく歩み返し、吐息をついて、生垣の前へ戻ると、そこに転がっていた五寸位直径のある石の下へ手紙をはさんで、一寸娘へ哀願するような一瞥を投げ、思い切ったように立ち上って、早足に其処を遠ざかった。私はそっと振り向いて見た。娘はじっと私を見送って、小さい門の所に立って居た。けれども未だ手紙を石の下から出す勇気は起っていぬらしかった。何でも彼の女は胸を高く波打たせて思案しているらしかった。
「そうだ。私の姿が見える間、娘は決して手紙を取り上げはしまい。明日が楽しみだ。明日だ。明日行って見ると、もう石の下には何もない。唯娘の眼がユッタリと頷ずいているのだ。おお之はもうたまらぬ事だ。」
 私はクスクスと笑ったり、又深い理由のない憂いに沈んだりして一夜を明かした。それから何時もの時刻に娘の家へ近附いた。娘はいくら見ても居なかった。悲しい落胆の予感が私の心臓を痛くしめくくった。何うしたのだろう。私は夢中になって生け垣の中をのぞいた。それから石を上げて見た。「アッ!」と私は早くも本式に落胆した。石の下には未だその儘で手紙が残っていた。悲哀と私一流の怨恨とが一時に私の意識を占領した。
 私は手紙をやぶり捨てるために、それを指の先でつまみ上げた。ああその時、実にその時である。
 私は烈しい心の動乱を覚えて、手紙を固く胸の上へ抱きしめた。鼓動は騒いだ。吐息が洩れた。ああ実に之は何たる不可思議であろう。私は手紙の表面へ「悲しいお嬢さん」と書いたのを記憶している。だのに、今私が抱いている手紙の表面にはそれらの字が消えて真白になっているのだ。インキ消しの薬が何時作用したと人は思うか。
「何て、うまい事だ。」と私は擽たそうに微笑した。その手紙は確かに娘からの返事であった。何と書いてあったか? 私はもう忘れて了った。けれど何でも、もう嬉しくて寒気がするような、有難い言葉が三つも四つも続け様に繋がっていたに相違ない、私は見えない娘へ何回もお礼を云って、生け垣を去った。半町も歩いて振り返って見ると、今迄姿を表さなかった娘が門の前へ淋しい水の精かなぞのように立っているのが分った。私は夢中になって、そのやさしい姿の方へ舞い戻ろうとした。娘は近寄る私を恐怖するように家の中へ逃げ込んだ。
「この位で丁度よいのだ。之が一番楽しい所なのだ。」と私は微笑んで呟くと、思い返して、その頃、宿にしていたある西洋人の家のキッチェンの屋根裏へと戻って行った。今日の楽しみが斯うして終りかけると、私はもう明日の楽しみを夢みる事に精を出し初めた。その時である。私が私服巡査につかまって了ったのは……
 けれど、くりかえして云う。私は斯うしてつかまって了ったのである。何んな手掛りで捕えられたかは私自身にも分らなかったが……
 新聞は私を嘲罵した。それで妹が世話になっている病院の院長に迄も私の暗い行為が知れ渡ったのである。其れが又私の仕合せの端緒となったのは何よりも不思議ではないか。刑を済ました私は院長に引取られた。とは云え何も病院内の職務に服さねばならぬ義務を課せられた訳ではなかった。遊んでいる苦しさから逃れるために、私はギブス繃帯掛りの役を与えて貰うように懇請した。それから平和な月日が無為と無事とをもたらしたのである。
 あの娘は何うなったかと誰か尋ねて呉れないだろうか。ああ時間程いけないものが又とあろうか。私は口惜しさと悲しさに身を刺された。私が刑を済まして後、あの生け垣を再び訪れた時、娘はもう生きていては呉れなかったのである。聴けば肺病が重くなって急に死へ急いだと云う事であった。そう云えば、私が通いつめた頃も、透きとおるように白い肌がいくらか不健全に見えていたのであった。
 あの娘を殺したのは此の私ではなかろうか。又しても暗怪な疑念が私の心に蔽いかぶさった。肺病には興奮や心配や落胆や悲哀が一番悪く影響するのを私は知っていた。私は彼の女を徒らに興奮させ
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