示したと思うと、又静かな物柔かさに戻って行った。此の微細な雲行!
おお、彼の女はその時、笑った、笑ったのである。微笑んだのである。奇蹟のように、神秘に、不思議に意味深く、淋しく、柔しく、純真に、後悔しているように(そして何よりも明かな證明だ。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]深く深く私を愛しているように……
「ミサ子さん!」私はよろめいて彼の女の方へ進んで行ったが、又厳粛な心に釘付けされて、その儘真直ぐに立ちすくんだ。
軈て静かな微笑は消えて行く煙のように、彼の女の痛ましい顔面の上を去った。再び眼は閉じられ、苦し相に顎を動かしてする呼吸のみが聞き取れた。
「可愛想に、貴方の声を好く覚えて居て、あんなに柔しく微笑んだのです。」教員は手を顔に当てて我慢しきれない泣き声を圧えた。「之で、もう直き死が来るでしょう、安心して死ねるでしょう。」
「許して下さい。」と私は顫えて彼の女に縋ろうとし、又教員に寄り附こうとした。けれど私の足は堅く釘附けにされ、私の腕は縛られているように動かなくなった。
それから何うして、其処を逃れ出したのか、私はもう語る事が出来ない。唯明白なのは私が駈けて、そしてあの断崖の近くへ迄行きついた事実丈である。私は風で揺れ廻る長い草の中に身をひれ伏し、雲が低く動く空へ声を放って泣いた。心は狂い、苦しみ、鞭打たれた。眼は何か黒い流れや斑紋を幻覚し、あらゆる血管を後悔の蛆が游ぐのを知覚した。
微笑! それが恐ろしいのである。何んな怒りの形相が私をそんなに迄身顫いさせ得るだろうか? 誠実な微笑! 私の体は痛み、私の身は皮を剥がれた蛇のように藻掻いている。その微笑! 一番純真なものが、私の汚れた行為に対して報いられている。ああ、その一瞬の微笑に一生の生命が賭けられている。そんなにも価値の重い深遠な荘重な戒めが何処に又とあろうか。
「私は後悔しています。けれど心の底から貴方を愛しています。」と語りそうな微笑! 私は今後何うしてそれに報いる事が出来るであろう。いや、何も考えられない。そしてもう何も出来ない。彼の女は最早死んでいるではないか? 私は何かしようとして動いている。けれど、一切はもう遅れている。晩過ぎる、それ丈が漸く分るのだ。
私は風に揺れる草の中に転んで何者かに許しを乞うた。皮を剥がれた罪深い蛇のように、自分の浅間しい体に驚いては、天に向って悲愁と痛恨の叫びを投げた。ああ眼球を繰り抜いて投げだしても間に合わないではないか。
「微笑! 許して呉れ。ミサ子の霊よ。ミサ子の口元よ。許して呉れ。まざまざと眼に見えて来る。私の脳髄に彫附けられたその微笑! 一番優しいものの恐ろしさ!」
けれども声は甲斐なく消え、風は凪ぎ、そして、あの闇、始終その中で私が悪事を働いたあの闇が、私の火傷したように脹れた肉体と精神の上へ蔽いかぶさるのであった。それは実に並ならぬ、世の常ならぬ暗さであった。
(退職教員の付記)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
哀れなセルロイド職工の手記は此処で終って了っている。
けれど私は何う説明したら好いのであろう――事件は複雑で、その上に私の心は鎮まって呉れない。自分丈にはスッカリと分っている事が、いざ説明し、弁明し、闡明しようとすると、皆漠然として了い、もう物語の端緒が見附からなくなる。私は長い時間かからねば話し尽せない事件を、まるで絵図のように一度に展開したいので、却って混乱へと落ちるのである。
何故、ミサ子は死なねばならなかったのか? 之が一番初めの、そして一番六ケ敷い問題である。人が他人の心を悉く知る事の出来ない限り、此の問題に正確な解釈を下そうとするのが既に誤謬の初めではなかろうか?
けれど、黙ってはいられないのだ。もうミサ子は死んでいる。彼の女の口の代りに、誰かが正当な弁明をしてやらねばならない。それは何より明かな事である。
彼の女の死に場所は我々が王冠の森と呼ぶ木立のある断崖であった事を人々は記憶しているであろう。其処で今度は何故彼の女があんな不都合な場所を選んだかと問うて見ねばならない。実を云うと、私は未だ新しい悲愁に眼を蔽われていて、考える力、理性を適当に働かす力を恢復してはいないのだが、それでも、夢の中であった事を思い出すように仄かな幽かな――云わばまるで暗示のような解答を捕える事が出来る。
彼の女に取って、あの断崖は懐かしい思い出の場所であり、恐ろしい罪を想起させる刑場でもあったらしい。そして、私は確かに二度迄も彼の女の口から洩れかかる懺悔の言葉によって、それを直覚していたのであった。それ丈は今斯うしていて、思い出し得る間違いのない記憶である。いや何たる忌わしい記憶であろう。
それから何うしたか? 語る可きもっと重要な事はないのか? あり過ぎる。それで困っているのである。私はもっと前の、もっと古い記憶から辿り直さねばいけないのだ。いや、説明の出来ない沢山の事が、語るのがつらい色々の事が、何うしてそんなに私の心の中に蠢動するのであろう。
事の初めは何であったか? 私の母とミサ子との気持ちが合わなかったのを先ず思い出せ。それである。原因と名附けられるのは確かにそれであろうか? いや、之は大きい原因ではない。けれど斯んな工合であった――即ち、ミサ子と私の母とは大きい喧嘩をしたのだ。いや、そうではない。その事にも既に原因があった。私よ、驚くな。皆云って了う。私はミサ子と結婚する以前に、彼の女を妻のようにもてなした覚えは確かにない。断言する。それから彼の女が櫛を盗んだ時、彼の女は我々の知らない特別の週間の中に居たのである。だのに、何うしたのか。それを云うのがつらいのである。彼の女は私と四ケ月同棲した時、妊娠六ケ月位になっていたではないか! 之が潔癖な昔堅気な、そして士族の娘であった私の母を此の上もなく不快にし、喧嘩の素を造ったのである。元より、私は三つ許した次手に、四つでも五つでもミサ子の過失を許そうと心掛けていたのであるが、母はもう到頭我慢がし切れなくなり、自分から自分に敗けて怒りを発して了ったのである。
「お前……」と母は私を蔭へ呼んで尋ねた、「お前、結婚前にも、その覚えがあるのですか?」辛い質問! そして痛い思い出が此処から初まる!
ああ、私は何と云う機智と奇才のない鈍物であったろう。「いいえ、」と云う正直な答えより他には、一寸好い思い附きもなかったのである。私が悪い、もうそれに相違ない。ミサ子を許そうと心掛けているなら、何故、あらゆる点に心を細かく働かして、許すための計らいをするように努力出来ないのか? 私は自分を叱り、自分を噛み破っているのだ。
俄然、ミサ子は家出して了った。それも夜中にである。勿論彼の女は私の室に臥なかった。私は十二時頃一度目覚めて、泣いている彼の女を台所迄呼びに行った。すると驚いた事に、彼の女はそこの板の間に自分丈の布団を布いて臥ていたのである。顔は蒼白になり、息づかいが荒く、何か強い苦痛を耐えているように、額へ水を浴びたと思われる程汗をかいているのであった。おお私はもう此の先を話せない。
「畳の方へお行き、私は何とも思ってはいないよ。母の事は許して呉れてね、さあ、冷えない方へ……」やっと私は囁いたのである。
「私を女中以上に取扱ってはいけません……ああ身分が違う……私は悪い所から出て来た女です……」彼の女は悲しさで歯を喰いしばり、漸くに之丈を口走って眼を閉じて了った。
「その儘で沢山だ! 構わないが好い!」他の室で、未だ覚めていたらしい母が口を入れた。私は母親に大変な孝行な質――自分で云うのは可笑しいが、何んな曲った事でも母の命令なら従うように生れついた男――であった。それも、此の場合では大きな過誤の一つとなったのである。そして私は私の心を噛んでいるのだ。
私は労れ切って、悪い夢の中に一夜を明した。次の朝、母より先へ眼を覚ますと、私はミサ子の代りに戸を明けてやった。明るく流れ込んだ光線は一切を明白に指し示した。ああミサ子はもう私の家の私の妻ではなかったのである。
母は幾らか後悔しつつ、尚怒りを止めなかった。「何処迄人に世話をかけるのだ。もう捨てて置くが好い! あれはお前、不良な少女だよ。改心と懺悔を売物にし、家出をおどかしに使う、そんな少女なんだよ。」
それから母は大変不安な焦躁を示しつつ殆ど狂的――そんな例を私は未だ私の母に於いて見た覚えがない――と思われる迄、身を取り乱して、大きい小さい荷物を片附け出したのである。それは何のためか私の解釈に苦しむ所であった。母は斯んな忌わしい方角の家は捨てて、新しい幸福な所へ住み替え、悪い思い出を一切打ち消したいと丈語るのであった。私は何も分らずに、其の命令を受け入れねばならなかった。庭に植えてある色々の草花を鉢へ移したり、ミサ子の下駄を取り上げて見たりして、私はいくらでも尽きずに出て来る悲しみを泣く事が出来た。
警察の方へは早速ミサ子の捜索願いを出した。
移転をしてから十五日目――ああ何と云う空漠とした、然も紛乱した心持の十五日であったろう――が過ぎた時である。警察官が突然私を訪ねて来た。
「おおミサ子は何処に居りましたか?」私は恋しい女性の居所を知る事さえ、いやその歩いた道を知る事さえ、胸の裂けそうな喜びであった。
「いや、その事ではないのです。実は伺いたい点があるのです。そのミサ子と云う方――即ち貴方の妻――は妊娠して居ったでしょうな。」
「はい、現在妊娠しているのです。」
「実は申し上げにくいが、以前貴方の棲んで居た家の縁の下にですね、女の――若い女の衣服で包んだ、胎児の屍体が隠してあって、それが匂い出した為め、近所の大騒ぎになっているんです。」
おお、之が本統の事であろうか? ミサ子は家出したのである……家出……家出と犯罪……そして転居……転居と犯罪……警察官の嫌疑は当然であった。
ミサ子はその行衛を見附けられなかった。そして、彼の女が居たと叫ばれた時には、もう元通りの彼の女ではなかったであろう。何んなに私の記憶が乱れようと、それ丈は確かな事である。
彼の女は横って居た。彼の女は骨を砕いていた。そして、そして何か? そして、もう妊娠もしていなかったのである。この事が死の重大な原因であったのか? 何? いや原因ではない。寧ろ結果と云うベきであろう。実に、実に悲しむ可く痛ましい結果。結果として表われた事実なのではないか。
「お母さん。貴方は知っていたんですか。」私は斯う尋ねて眼を閉じた。
「知らない。知らない。この事はすべて秘密だらけです……第一、全体、それは誰の子なのです?」
私は息が詰まった。誰の子? 神よ、貴方は私に子を授けて下さった。それだのに、私はそれを受け取れなかった。何故か? 一寸した行きがかり――一寸した不注意――一寸した愛の不足! ああそれは原因でもあり、結果でもあるのだ。
下さるものを拒んだのが間違いの原因であった。いや原因はもっと前にある。之は寧ろもう結果に近い一つの過失ではなかったか?
私は明晰には考えられない。何故なら……いや何故ならではない。之は何かしらあのセルロイド職工に、又あの断崖に関係していたに相違ない。私が悲しい足取りで、あの職工を呼びに行き、彼にミサ子の死に際を見せてやり、又ミサ子の霊へ一つの重要なそして最後の思い出を土産として持たせてやったのも、実に、私がそんなに漠然とした関係を直覚したからであった。
私は何うしよう。又分らなくなっている。ミサ子は私を恨めし相に睨めた。
そしてセルロイド職工を微笑みを以て眺めた。そして誰れが彼の女を殺したのであろう。
一体之は何であり、何の結果であるか?
私は義侠心から彼の女を愛したと思われている。そしてあの職工は唯淋しさから、或いは戯れに類する嫉妬から彼の女を愛したと思われている。そしてその内何方が正しいか? いや、正しくなくとも、何方が正しさに近いか? 分りはしない。唯ミサ子の心は何かしら独自のそして特殊の判断を下していた。いや
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