れは、あの女性は誰れが初めに見つけたのだ。え? 返辞をして呉れよ。誰れでも好いから、私に話して呉れよ。私はあんまり強い淋しさに打たれているのだ。」
崖上の愛
私の怨敵は何処へ隠れたか?
斯う叫んで闇の中を見詰める時、何かに悶えて泣き悲しむ院長の息子の幻を透かして、もう一つの他の形が見えて来るのは何故か?
私は恐れる――強烈な淋しさが擬集して、私の心の中で一つの形を取ると、それがミサ子の羞かみ怯える姿になっているのである。
私は苦しがって長い釘を柱へ打ち込み乍ら、困った、困ったと云う嗟嘆を繰り返した。
けれども、結果は何うなって行ったか? もう急いで早く語って了いたい。
先ず私は我慢が出来なかった。その為めに心を紛乱し、得体のしれぬ憎悪、嫉妬、侮蔑のような感情が荒立つ儘に委された。そして到頭私はミサ子の家の近く迄、悪い霊に誘引されて、足を運んだのである。
二三夜は無駄に過ぎたが、四日目の闇夜、私は外出する彼の女を堅く捕えた。
尋常でない畏怖の表情を以て女性は眤と私を見つめ、そして私の眼の中に麻酔薬のようなものを感じて昏倒しかけた。
「いけません! それは、ああ私には堅い約束があるんです。どうぞ、許して下さい、私は貴方のお情けに縋ってお頼み申すのです。あの約束が……」女性は顫えた声で囁いた。
早く話して了う。私は女性の倒れかかる体を腕でささえ、彼の女の顔の上へ、自分の顔を持って行った。羞耻と恐怖のために燃える女性の頬から、カッ気が湯気のように上り、私の頸の両脇へと分れて行った。
何故、女性が私の恋愛を拒まなかったかと云うに、之には二つの理由があるらしい。一つは私が無条件で彼の女の気に入った事である。もう一つは、私が彼の女の罪を許し、又私の悪い謀み――即ち、彼の女の罪を云い掛かりに恋愛を遂げようとした事――を後悔して、改心していると云う話を教員から聞いていたからである。
「改心さえすれば、その人は洗われたように綺麗になる。」と云う思想を彼の女は、自分自身から推し量って、私の上に迄及ぼしたらしく思われる。
斯様にして、私は悪い謀みに依ったならば恐らく却って失敗したかも知れぬ情事に、造作なく成功して了ったのである。之は何事であろう。然も私には純真な恋慕の情と云うものが全く欠けているのではないか! 嫉妬のようなもの、怨嗟のようなもの、漠然とした復讐のようなもの、それからあの柔和な教員の早手廻しに対する見せしめのようなもの、之等が私の恋愛を形成する主要な元素であるとすれば、私はあの改心した美しい処女を、再び闇の底へ引き戻し、「悪の教育」を施している事になるのである。
何うするのが最良の方法なのか? 私にはもうそれが分らない。唯斯んな恐ろしさが悉く事実であるのを認め得る丈である。
三度目に女性と密会した時、彼の女は最早何者をも恐怖しない程に変って了って居た。其れに何で無理があろう。彼の女は元から盗みを為し得る程の女性なのだ。
「貴方は、あの初めての晩、私を厭がって、何だか他に約束があるって云いましたね。約束とは何ですか? 云って下さい。貴方はあの教員と何か云い交したんですか?」私は断崖の上に立つ所の亡びかけた森の中へ入ると、彼の女を詰問した。
「許して下さい!」
矢張りそうであった。彼の女は近い内に、再び小鳥屋へ引き取られ、それから教員と結婚する約束になっていたのである。
「けれどねえ。あの方は私を本統に愛しているんじゃないんですわ。唯私を哀れに思って下さるんです。皆、義侠心から出た事なんですわ。それから、貴方は貴方で……私を矢張り愛して下さらないんですもの。私分って居ります。貴方は唯邪魔がなさりたいんですわ。」
「おお……」と私は自分とそして彼の女に驚きの目を向けた。
「邪魔?」と私は繰返した。
「そうですわ。だから、貴方は私と斯んな関係になって居ても、結婚はして下さらないんです。いえ、却って、あの先生の方へ思い返してお嫁に行けと仰言るんですわ。ああ、私は何て気の弱い女でしょう。落ち度……あの落ち度のために、あの落ち度以来私気がひるんでいるんですわ。私は何うしても貴方に抗う事が出来ませんでした。そして、今では……一生でも貴方と一緒に居たいと云う儚い願いで一杯なので御座います。」彼の女は涙を袖に受けて泣き続けた。
「では私が勝ったのですね。」私は自分で斯う云って、その残忍な言葉に自分から恐怖した。
「勝った? 何に? 誰れに? 私に? あの方に?」と逆上した彼の女は早口に叫んだ。
「けれど、あの教員には私も大変恩になっている。私は貴方をあの人から盗み取るような不義理は出来ないんです。」
「不義理? 出来ない? それでは、何故、何故、斯んな事をなすったんですか?」
「許して下さい。私は何うしても我慢が出来なかったんです。許して下さい。そして、あの人の所へ行って下さい。何も彼も秘密にして……」
「私は、斯うなるのを予期して、もう早くから諦めていました。貴方はもう私を嫌ってお出なんです。皆察しがつきますわ。貴方は三度目に会った時、もう私に厭きているんですね。何て悲しい、けれども吹き出したいような可笑しさでしょう。斯んな事がそう方々にあるとは思えませんわ。」
「貴方はもっと素直な花嫁になって下さい、私が邪魔をしようが、すまいが、何うせ貴方は初めから処女と云う訳ではなし……。」
「何です? 聞えませんでした。も一度、も一度、云って下さい。」彼の女は私の胸に喰いついて来た。そして、私の顔を眤と窺った。闇が濃く流れて、何も見えはしなかった。
私は厭きて了ったのである。
彼の女は諦めていて、それを恨まずに唯泣いたのである。おお何たる奇怪な夜であったろう。
恐るべき微笑
狂暴な悔恨が再び私の胸を喰い破り、肋骨を痛めつけずにはいなかった。何う云う風に彼の女へ謝罪す可きか? 何んな風に教員へ弁解す可きか? それとも一層何も云わず、一切を秘密に付し、私丈他の都市へ去るのが、皆を幸福にする唯一の手段ではないだろうか。
私は出来る丈善い行いをしようとして、然も斯んな恐ろしい罠へ落ち込んで了っている。脳髄は腐敗して了ったように、もう役に立たず、思考力を集注しようとすると、軽い眩暈が起って来る丈であった。
けれど、そのような懊悩は一ケ月位で消散し初めた。そして、私の眼前には時間につれて色々の事件が生起した。ミサ子は約束通り教員と結婚し、悪い父親とは金銭を与えて縁を切った。若い二人は大変睦まじく日を過しているようであったが、何故か急に転居して、住所が不明になった。私はその頃遠慮して教員を訪ねた事もなかったのである。[#底本では、「のでる。」の誤り]
転居と同時に、ミサ子の行衛が不明になった事、誰かが、何処かの停車場で、彼の女を見掛けた事、彼の女は汽車の中に眠っていて、下車す可き駅を乗り越していた事、なぞが噂された。私は淋しい悔恨の生活を続けつつ、それらの話に可成りな注意を払い、興味以外の同情を以て物を見るように心を落ちつけていたのである。
俄然、もっと大きな破壊が起って来た。
私は考える事が出来ない。けれど、起った事は凡て悲しい事実なのである。
ミサ子は森のある断崖から、何丈か下の砂路へ飛び降りて、自殺を計ったのであった。
彼の女は死に切れないで、病院へ連れて来られた。けれど大きい怪我――諸所の骨が破れたらしい――は、もはや彼の女を三日と此の世に置く事を許さなかった。
教員は何時もの柔和な言葉つきで、彼の女の死ぬ前に一度丈会ってやって呉れと私に嘆願した。
「何故です?」と私は恐怖してたじろいだ。
「今度の事件は少しばかり貴方にも関係があるように思えますし、屹度ミサ子は貴方に会いたがっているに相違ないのです。」之等の言葉の中には一つの怨恨も憤怒も含まれていなかった。それどころか、教員の眼の中には、澄んだ涙が湧き起って来て、私に憐れみを乞うている如くにさえ見えた。私は顫えて彼の肩に靠れ、進まぬ足で病院に向った。それから?
「さ、貴方の待っている人が来たよ。ミサ子!」と教員は悲愁の限りを尽して云った。けれども人事不省に落ちているらしい女性は眼を開く事が出来なかった。之は何たる急激な変化であろう。
教員は深い嘆息と共に、私の方を顧み、そして世にも哀れな面持で、語り継ぐのであった。
「聞いて下さい。おお、見て下さい。この凄じい痩せ方を! 家を出る時、たった一円八十銭しか持って居なかったミサ子は、それを全部出して、汽車の切符を買って了ったのです。何故汽車へ乗ったか? 何処かへ逃げる積りだったのか? そうではない。唯進退谷って、もう行き場がなくなったのです。世界は斯んなに広いのに……罪と痛みに追われる者は、その中に安心して住む所を見出し得ないのです。可哀相なミサ子! お前は何処か遠い停車場迄用もないのに乗り越しをして了った。それから、きっと歩いて息を切って、再び此の街へ帰って来たのだ。お前はそんなに無駄な骨折をしながら、迷って泣き暮したのだ。きっと野原や知らぬ家の物置やに眠らねばならなかったろう。ああ誰れが云うか――野原に寝る少女は不良だと! いや、その少女を野に眠らせるようにする私達の方が……私の方が……何んなに不良だろうか! 見てやって下さい。見て……。僅かな日の中に、ミサ子は斯んなに痩せ細って、年を取って了った。悩みで痩せ、それから断食で細ったのだ。何処かの泉で飲んだ水は、皆涙になって了ったんだ。斯んなに眉毛が取れて了って、そして、恐しい事に、髪の毛があんなに抜けて落ちる。
断食……ミサ子は態と食べずに居たに相違ない。死のうと思って断食し、死のうと思って歩き廻ったのです。そんな悲惨な事があって好いものだろうか? 然も、此処にある。此処に厳として存在する之は何ですか?
私は何うすれば好い? ミサ子は私の家へ来るより、残酷な父の許にあった方が幸いだった。父の家にいるよりも、あの小鳥屋の店にいた方が仕合せだった。取り返しのつかない事ですが、私は番いの紅雀を斯うして病室へ運んで来ました。来るには来た! だがもう見て呉れる眼が閉されて了っている。」
気が附かずに居たが、窓際には小鳥の籠がかけてあったようである。ハッキリは分らぬが、何でも、あの小鳥の鳴き声――節の終りの所で、物問う様に、調子を上げるその声が、恰度、悲愁を持った懺悔の聖歌の如く、私の耳へ幽かに入って来るようであった。
だが、その事ではない。鳥の声なぞは何でもない。私は、もう言葉が出ない。何んな風に云い表わそう。戦慄なぞと云う文字さえ、一つの弱々しい遊戯としか感ぜられぬではないか。恐怖、驚愕、そんな文字が何か? 私の心持の何十分の一が、それに依って伝えられよう。
駄目である! 私は歯痒くてならない。
聴き手よ。貴下は竜巻を見た覚えがあるか? 黒い煤のような雲が、地面の直ぐ上に迄降りて来て、砂が一本の筒のように上へ吸い上げられ、其処に迷っていた幼児が帯を持ち上げられたように、空中へ飛ぶ様を見なかったか? 或いは大きな塔が割れて、その裂け目から、青と赤との焔が出る所を見なかったか? 或いは、そうだ! 重い馬力車に老いた女が轢き殺されて、貴方の眼前で血を鼻と眼とから流し乍ら、見る間に生から死へと急転する顔面の凄じい色を目撃した覚えはないか?
そんな時の恐怖や驚愕や戦慄に数倍した渦乱のような激動を、私は身体の凡てで感じたのであった。
何と云う凄惨な有様。そして、之が私と密接な関係を結んでいる。それが恐ろしくなくて好いであろうか!
床の上へ落ちている毛の一本さえが、私の爛れた心を針のように刺す。そして、何万本と云う髪の毛が――全く光沢を失って、ミイラのそれのように、べッドから垂れ下っている。私は血が凍り、唇や鼻や眼の球が冷たくなって行くのを感じた。
「ミサ子さん!」私は思い切って絞り出すような声をして彼の女を呼んだ。ああ、実にその時、その瞬間、ミサ子の眼は静かに開かれ、そして私の方へと柔和な視線が流れた。それは見る間に、物凄い絶望の色を
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