すからね。今は寧ろ安心するように努め、之から来る幸福をお考えなさい。それが直ぐ来ないでも遠くに見えると云う事は、すでに幸福の一種ではありませんか。きっと、貴方は善くなれます。そんなに貴方の心は美しいのですから。
 盗みと一口に云えば、人々は何んな盗みをも一様に思い取り、其れは悪い事だと、顔を反けますが、人の心が複雑であればある程、盗みの種類も多く、又差等がなければなりません。
 私は斯う云う話を聞きました。一人の有名な画工が、一人の熱心な弟子を持っていましてね、或る時、二人して同一の林檎を写生したのです。すると、師匠の方のは発色が鮮かで、本統の果実のように出来たのに、弟子の方のは色を余り重ねたので、濁って汚くなったのです。それで師匠は一寸軽蔑を以て、弟子の画を批評したんですね。弟子は傲慢な質と見えて、カッと顔を赤くしたそうです。師匠は生意気な弟子を睨めると、『君の絵より、その顔面の朱の方が発色が好いじゃないか?』と申しました。それは本統に同情の欠けた言葉に違いありません。弟子は立ち上って申しました。『先生は何か秘密な高価な絵の具を使うのです。それを私に教えないんです。』
『馬鹿な! もっと技巧を練りなさい。すると絵の具が云う事を聞いて呉れるようになるんだ。ブラッシュへ入れる指先の力の工合で発色が異って来るのだ。』師匠は斯う云って、手を洗うために画室を去りました。独りになった弟子は、いきなり師匠の絵の具箱の所へ飛んで行って、林檎の赤い色を表すために使ったギャランスフォンセと云う絵の具のチューブを握り締めてね、中の絵の具を二寸も押し出して、やり場に困ったものだから、自分の口の中へとナスリつけて了ったんです。
 貴方、分りますか? 之だって立派に盗みの一種です。けれども、此の盗みの原因を考えて同情のある許しを与えると云う事は我々に何れ程必要であるかを知らねばなりません。
 此の弟子の心には先ず第一に嫉妬、それから疑念、それから憎悪、怨恨等が渦を巻いていたのです。そして重に嫉妬が原因となって盗みをして了ったのです。当の絵の具が欲しいのではない、先生と同じ技能が欲しいのに、やはり行為の上に表れて来た事を見ると、絵の具を盗んでいるんです。人間と云うものは無形な事を有形にして表す傾向を持っています。彼は具体的に事を為す性質に災いされているのですね。
 分っています。貴方が盗みをするようになったのも生来の本能からではないのです。何か無形な怨恨が形の上に表れて来たのに過ぎないと私は解釈しています。さあ! 未来を余り心配しないでね。臆病にならずに、正しい方へと歩き返してください。
 自分の罪や過失を思い出す程つらい事はないけれど、又、之から正しくなろうとする勇気を見出す程晴々したものはありません。
 貴方は悪いお父さんに対抗し、悪くなって行く所を見せつけて、競争し、復讐しようと云うような心持を抱いたんでしょう。いえ、そうハッキリと意識せぬ迄も、矢張り、そんな傾向を取っていたらしいではありませんか。
 卑怯と戦うに卑怯を以ってするならば、善良なものの方が敗北するのは当然です。貴方は敗けました。そしてそれこそ貴方の心の奥にある善良を證して余りあるものと云えましょう」
「何んなに仰言って下さっても、私は盗人より以上のものでも、以下のものでもありません。もう普通の、何の理窟も弁解も入用でない盗人です。私はあの櫛が唯欲しゅう御座いました。そして取って了ったのですもの。ああ、けれど……」
 女性は此処迄語ると、急に驚いたように調子を変え、そして口早に叫んだ。
「ああ、あの子が悪いんです。あの子が私に取りついているんです」
「誰、誰の事を云ってるのですか?」
「隣りの子! あの可哀想な子は走る事の出来ないナマコのような畸形児で、両手の指が三本丈しきゃないんですもの。涎や目脂をたらし、アア、アアと丈は云えますけれど、その他の事は何も分らないんです。何時も臥るか柱によりかかるかしていて、私を見ると息を切らせ乍ら這い寄って来るんです。そして、三本丈の指で私をツメるんですわ。」
「其れは夢で見た事のようですね。」
「いいえ、本統なのです。あの骨なしみたいな、癩病みたいな顔の子が、私は初め恐くていやでね、それから、今度は好く見るともう可哀そうに思えましてね。夜いつ迄も眠れないと、その子の事が幻にうかんで、私好くは分らないけれど、その為めに、初めての盗みを思い立ちましたようですわ。小さい泥の人形を私は夜店から取って来て、そして恐ろしいものを捨てるように、隣りの子へ投げつけたんです。けれど、今の私は自分の為めに櫛を盗まねばならぬような心掛けになって了っているのでした。いえあの三本指の子に罪を押しつけようとするのではありませんけれどね、ああ私は自分で自分の考えが分らないのです。唯、あの子のむくんだ醜い姿、それから、その子と遊ぶ腫物で毛の抜けた盲ら犬の姿、そんなものが、毒のように私の体に泌み込んで離れないんですわ。私は伝染して了ったのです。其れ等のものへ同情しているんでなくて、もう一緒に捲き込まれて了っているんですわ。それにねえ、懺悔しにくい事ですけれど、あの畸形児の父に当る人が、……」此処で女性は又言葉を切り、体をよろめかして、私の肩に頬を当てた。
 私はその話の先を続けるようにとは促さなかった――何故なら、彼の女は恐らくもう処女ではないと云う直覚が悲しくも私の脳裡を掠めたからである。私は心を変えて斯う劬った。
 「私は貴方をもう一度小鳥の間に住まわせて上げたく思います。貴方さえよかったら、お父さんと相談して上げてもかまいません。」
「……畸形の子の父親は……小刀を持ってます。そして、あの若い商人の方……は私の落ち度を堅く握っていらっしゃるんですわ。」女性は私の言葉とは掛け離れたある恐ろしい妄想に耽けっているらしく、眼を上釣らせて、黒い上空の一点を見つめた。

   他人の楽しみ

 幾月かが風や雨と一緒に過ぎた。そして風や雨は、私(セルロイド職工)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]の心の中にある悪辣な部分丈を洗い去り、従って善良な部分を明瞭に表面へ洗い出して呉れたように思えるのであった。
 私は刃を以てする複讐を思い切る為めに、何度か、あの免職教員の親切な助言を煩わした。そして、兎も角も、口頭で怨みを返し、反省を促すために、院長の子息に面会する機会を探した。
 子息は彼自身が私の妹を愛していた事、愛していた許りでなく、もっと深い関係に迄も入って行った事、それは重に彼の女の正直と低能へ向けられた同情に起因する事、院長の方は決して妹を自由にした證拠及び噂さのない事等を、悩ましげに頭をおさえて物語り、それから、もう一つ思い掛けぬ驚きを次のような言葉で私に与えた。
「父は貴方に骨の壺を見せたと云いますが、それは真実ですか? そうです。父は貴方へ向って何か秘密なそして重要な事を打ち明けたかったんです。けれど、その目的を思い切って決行する勇気がなかったらしいんです。死に際に、その秘密のホンの端緒丈を私に洩らしかけたが、直き息が苦しく詰まってね、話が途切れて了ったものだから、私にも好く判断がつかないんですけれど、何でも、貴方は私共の身内なんだろうと私は思いますね。ええ、それ丈はもう確かなのです。父はそれを貴方に打ち明けたくて、あの骨の壺迄も貴方に示したに相違ありません。」
「では、あの骨は誰れのだと仰言るんですか?」私は疑念で顔を曇らした。
「勿論、あの頭蓋は女性のものですよ。今度の火事で、なくなって了ったが、実に惜しい事をしました。あれは何でも異常に美麗だった女性の骨です。私は三度も取り出して見たけれど、何時も、あの端麗な骨相によって、それが生きていた日の好く均斉のとれた美貌をも思いやる事が出来ました。」
「では、その女性の顔と私の顔とが似ているとでも仰言ったんですか――院長さんが――」
「まず、そんな訳になるでしょう。いや、そうだ。それに違いない。あの女性こそ貴方の母親だったんではないでしょうか。勿論、よくは私にも分らないが……」
「造り事はおよしなさい。それは空想の過剰から来たものに過ぎない。私に云わせれば、斯うです。院長はあの骨が生きていた頃、それを愛していたに相違ない。所が、その女の顔が私と似ていたのに気附いて、妙な追想に耽り、私をも愛着するようになったんです。唯それ丈です。私が紫の室に臥ていた時、そこへきた院長の挙動や眼附でもって、以上の推察を下し得るんです。」
「いや、事件はもっと複雑に違いない。あの骨の女性は父とその兄との共有物、もしくは互いに争奪しあった宝石だったんです。此の事は父が前にも三度程打ち明けたのだから、疑いのない話です。それで父の兄は極く秘密に女を殺したんですね。それも父の話の様子で大概推察されるんですが。貴方分りますか?」
「私は何も信じません。好い加減な芝居をかく事はお止しなさい。私は唯貴方の反省を促すんです。」斯んな風に話は再び当の問題へ戻って行って了ったのである。
 それから間もなく私を何より不快にしたのは、院長の子息が可成りな金子を持って上海へ渡って了った事件であった。
 けれど、私は最早、その跡を追うまいと諦めた。又追うにしても、それ丈の金が懐ろにはなかったのである。私は再び憤怒に似た或るものを感じ、自分の不甲斐なさを悔い初めた。ハムレット風な憂悶は絶えず私の前額を蔽い、眼の光りを曇らせた。
「妹よ。許して呉れ! ああ私が悪い。そして周囲が悪いのだ。空間も時間も皆間違っているのだ。」
 私は斯う呟きながら、不図ある一点を注視した。ああ、そして私は自分の悪い疑念を鞭打った。
 私は何を見たのか? 骨の壺に刻まれたアラビヤ文様の幻影であるか? 或いは美女の幽霊であるか? それである、一人の美しく若い処女――それがあの免職教員と睦まじく肩を並べ、向うの方へと曲って行くのである。
 あれは盗みをした可愛い娘ではないか? 何故今頃、教員に用があって、面会するのか? 何故二人はあんなに楽しそうなのか?
 ああ、そして私は何んなに淋しく沈みかえり、妹を手元から失い、敵をこの街から逃して了ったか? 私の慰安は一体何処にあるのか? 前に関係した二人の姉妹も絶交を申し出し、そして、行衛をくらまして了っている。ああせめて、あの妹娘の方丈でも、私の傍らに居たら……
 だのに、彼処を見よ。若い教員、そして新鮮な美女! 二人は一緒に巣を造る二羽の小鳥のように舞っている。おお、あれは教誨する師と、懺悔する教え子の姿ではない。たしかに無い。
 嫉妬? それに似たものが暗い雲のように私の心を埋めた。私は勢いづいて二人の影を追い駈け、そして二人の間へと、無遠慮に割り込んで行った。
 処女はいじけた小鳥のように顫えた。そして教員は? 彼は沈鬱な表情で私を見上げた。私は男の方へは注意せず、女の方を真正面から眤と見てやった。彼の女は消え易い雪の様に素直で臆病であった。何うして斯んな大人し気な女が盗みを働いたか? それは一つの大きな疑問である。
「ミサ子さん!」と私は馴れ馴れしく云ってやった。「ミサ子さんとは、何て好い名だろう。あの晩に教わった名ですね。」
 教員は険悪な風向きを見て取ると、私を慰撫するように口を入れた。
「ああ、心は微妙な丈に、又毀れ易いものです。さあ、此の娘さんの心を掻き乱さないように、二人で愛して上げねばいけない。」
「二人で愛する?」と私は眼を赤く怒らして、教員の前に立ち塞がった。けれど、不意に自ら耻じると、主人に会った犬のように、私は大人しい表情に戻り、それから静かに処女の方を振り返った。
 ああ、その時である。その処女が私を強い恋着の眼で見つめて居たように思い取れたのは……けれど私はそれを気にしなかった。いや、自分の見ちがい、もしくは思いちがいであると信じて了った。
 私は落ちついて、別れの言葉を告げ、二人をうしろにして、他の路を取った。淋しい心から、頼り所のない気持が湧き上って、斯う私に問うようであった。
「何うしたのだ。あ
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