ク毛を口先で吹いたり、子供の時に出来たと云う小さく愛らしい腫物の痕を見せたり、生ぶ毛の話をしたり、或はもっと精神的な方へ材料を代えて、ラファエルの運命の三女神中何れが魅惑的かと尋ね、ゲーテの艶福を評したり、態と椅子をガタガタさせ乍らベトーヴェンが悲劇的な男である理由を聞いたり、(その癖答えなぞは聞いてはいない。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]その他あらゆる誘惑の機会を造り出そうとしていたのであった。そうだ。下らない事の極みである。
「そうだ。あの女に相違ない…‥」此の考えは私に取って甚だしく不愉快ではなかった。唯もう少しあの女が美しければ好いのだが、と云う嘆きがなかったならば……
扉の外では頻りに空気が動き、又留った。若しあの女ならば出来る丈からかってやろうと云う悪心から、私は寝たふりをして声なぞは決してかけてやらなかった。けれど年がさの女は大胆である。苦しい胸を打ち明けるために、此の離れて静かな室が最適なのを知るのであろう。そっと扉を動かして、中の様子を窺うのが私の背中へ感ぜられた。私は寝返りを打つ事も出来ず、息苦しい気分になって、顔を皺めた。私はもう戦いに敗けたようであった。
足音は静かに室内へと移った。そして私の寝台へ向ってゆっくりと進んで来た。私は心を締められるように緊張した。そして名状しがたい畏怖の念でガバと起き上った。振り返って、足音の主を見詰めた時、私は到頭、
「アッ!」と云う声を絞り出した。足音の主は四囲を見廻し、私の叫びが決して遠い室々へ迄は達《とど》かぬのを推察した。そして、
「静かに……」と手で制した。「驚くことはない、驚く事は……」けれどその声は少し慌て気味であり、自ら怯えているようであった。一体何事であったのか?
其処に立っているのは確かに院長であった。然も平常の院長ではない。その点が私を脅やかした大きな原因であった。彼は異人風の寝巻を長々と着、房を垂らし、それから哲学者が冠り相な夜帽を戴いていた。私は斯んな院長の姿を見るのは実に初めてであった。それ許りなら未だ何でもない。彼は片手に大きな壺を抱いて、平常は青い顔を真紅にし、私を眤っと見下していたのである。この妙な行動の半分が狂気から出来ていないと誰が云い得よう。
「何うなさったのです。先生……」と私は呆気に取られつつ小声で云った。小声にである。
「いや……」と院長は口を尖らして呟くと、抱えていた壺をゆっくりと床へ下し、再び私を柔和に打ち眺めたのである。
「その壺は……」と私は段々声を細めた。
「何でもない……」と院長は自分の身体で壺を隠すようにした。
「院長さん。貴方は私を何うかなさろうと云うんですね……」私は怖え乍ら辛うじて之丈を早口に云い終った。けれど未だ何も云わない様な気がしたので、もう一度少し声を力づけて、「院長さん! 貴方は私を殺す気じゃないんですか?」と本統の所を口走った。私は本当に死の予感に打たれたのである。
「お前の言葉は何時も誇張的で困るよ。私は本統に誤解されるのが苦しいのだ。」院長は之丈云うと歩き労れた旅人のように寝台へと崩れかかって来た。私は一層心を緊縮させて、院長がブカブカに緩い寝巻の下から毒薬でも出しはしないかと眼を見張った。ああ、此の紫色の室は他の人の居る室から遙かに隔っている。私は何よりそれを恐れた。そして院長が私を此の室へ寝るようにさせたのは矢張り未知の目的の為めであった事も察せられた。だが問題はそんな点にはないのである。
「しまった!」と私は歯を喰いしばった。私は一つの兇器をも此処へ運んではいなかったのである。いや、慌てた私は咄嗟の間に何も考えたのではなかった。
「それは確かに……」と院長は案外打ち萎れて何事かを語り出した。「確かにだね。二人の人間がずっと他の目から隔離された所で一緒に居るとだね。相手に何か害を加えてやろうなんて心を起し易いものなんだ。他の多くの眼からの隔離、それは実に驚く可き恐る可き悪化を齎らし易いものだ。」
「それで……」と私は力を入れた。
「いや、お前はいけない。殺すとか、殺されるとか、そんな動詞を容易《たやす》く使うのは好い事ではない。」
「そうです。そして云うのではなく、その行為を実行するのは更に悪い事です。」 と私は少し巫山戯《ふざけ》て云った。何故なら私は院長の挙動に何の悪意も見えないのが分って来たからである。とは云え私に何が分ったのであろう。
沈黙が続いた。院長は堪えがた相に頭を拳で叩きつつ室内を歩き廻った。私も静かに口を閉して、院長が何んな事をするか、じっと注目した。勿論、息のつまる注目である。
「……私は……」と彼は軈《やがて》て思い余るものの如く口走った。「私は此の頃、悪い悲痛に取りつかれている。お前にそれを察して貰いたいのだ。」
私は不思議に感じ
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