白くフヤけて、罎の底へ足の毛が抜けてたまっているのが私を大変不愉快にした。それから或る無頭児の罎詰の前迄行くと、令嬢の顔が不意に歪むのを私は早くも発見した。
「畜生! この女は低能児をはらむ恐ろしさを又しても妄想して悩んでいる。」と私は腹の中で叱言を洩らさなければならなかった。
 二人の女性が私を注視しているために、私は何時も気が落ち着かなくなり、勢い挙動も荒くなり勝ちだった。勿論注意深い院長は私が心を労らせている原因を見て取らずには置かなかった。
「私は外囲が心へ及ぼす効果と云うものに就いて、大きな興味を持っているのだ。何うだね。お前はあの紫の室で少し暮して見ないか。きっとお前の心がよくなるから。」善良な院長は浮かぬ顔をして斯んな風にすすめた。紫の室と云うのはヒステリー患者を治すために院長が業々《わざわざ》造ったものであって、その中央に小さな噴水の出来ている静かな落ち着のある室であった。四方の壁も寝台の足もその他の装飾も全部紫色を以て塗られてあった。
 私は元来紫色が大変にきらいであったから、此のすすめを何うかして逃れようと思案した。
「先生は紫色が人間の悪心を矯正するとお考えなのですか?」
「さあ……少くとも橙色よりわね……」
「子供の中に黒い部屋で育ちますと、その黒がしん迄沁み込みます。けれど大人になって紫の部屋に入っても、黒の上へ紫はそまらないでしょう。」と私は沈んで答えた。
「しかし、まあ、入って見なさい。何か効果があるかも知れないから……」
 以上の会話はまるで虚言のように態とらしく見えるかも知れない。けれど全部事実であり、院長の呑気に近い優雅を證拠立てる好い材料の一つであろう。人々は如何に思うか。世間の学者達は熱心に悪人を矯正しようとして考え、骨を折っている。然も紫色の室以上のものを設計し得ないのは大きな悲しみではなかろうか。
 私は何時も思っている。「幼いものをつまずかすのは、老人の足を切り取るよりも、もっと悪い事だ。」と。紫色の室が役に立つのは、其処へ入るものの頭蓋骨が未だ小さく柔軟な場合である。
 私は紫色の室内に眠って深い悲しみに閉された。私はもう駄目である。此の静寂が身に沁みて痛い。私はしまいに耐え切れなくなって、理由もなく増大する涙の粒を落した。

   夜の戯れ

 多くの病気に向って、紫色が好い影響を働く事を、英国のスノーデン博士が考えていた。そして主唱者の墜りやすい通弊として、彼もその影響の効果を過大視していたようである。我が院長に至ってはまるで誇大が狂的に迄進んで、私を嫌いな色でせめさいなんだ。彼は私の悪心を紫色で包み隠そうとしたのである。けれど彼は本統にそんな馬鹿気た望みを三分でも持ち続け得たであろうか? 私には何うしても院長の心持を洞察する事が不可能であった。
 私は不眠癖に苦しめられ乍ら、毎夜を紫色の室で大人しくしていた。同じ色の絹で蔽われた燈光が、同じ光に見える音のない小噴水の水しぶきを柔らかく照した。何一つ落ちていない床の上の広い淋しさが真夜中になると一層広がった。私は何うかして眠ろうと願って、あの観無量寿経の中にある一つの静視法、即ち落ちる日輪から水晶の幻影を生み出す事を考え耽るのであった。だが、話したいのは更に別の事である。
 その時であった。実に、物静かな空気が鼓膜に感じない前に、皮膚へ感じる程度の振動を起したので、私は忽ち我に帰って耳を立てた。
 足音である。人の来るけはいである。室外の廊下に思い余って、誰かが立ちすくむ様子らしい。だが、事件はもっと別の事である。
 誰であろう。女であろうか? 女ならば誰であろうか? 之が私の無言の質問であった。
「あれかも知れない……」と私が推定した当の人物は矢張り女性であった。彼の女は何時も私の眼に何物かを読もうとして焦躁しているのが分っていた。私が一寸戯れにやさしい顔をすると、向うは却って真面目に怯えたりした事もあるその女と云うのは独身の看護婦長であり、女の癖に極く慎ましい方であった。従って幾らか物識りのように見えた。彼の女は何うかして私の口に「恋愛」と云う言葉を上させようとして骨を折り、色々の導火線へ火をつけて見ていたのである。彼の女は胸の中で「私達はもう恋を仄かに感じ合っているのだ。唯お互いに内気だから打ち明けずにいるのだわ。」と云う一人定めの思想を抱いているのが確かであった。女は早く私から「甘い苦しみ」と云う奴を打ち明けて貰おうとして、もう夢中になっていた。始終自分の服装を替えたり、歩きつきを誇張したり、つまらぬ事に驚きの声を発して見たり、フンフンと鼻を鳴らしたり、一人で海岸へ行くと云ったり、森へ行くと云って出掛けなかったり、態々犬を私のそばへ連れて来たり、鸚鵡にものを云わせて見たり、風呂に入って香水をつけて来たり、腕をまくってム
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