よう。」私は誰もがするように、手紙をかいた。それを一寸甞めて、大きな秘密のように業々しく胸へ抱き込むと、私は又娘の家へ近寄った。門口に立っていた娘はオドオドと慌てて、おくれ毛をかき上げたり、帯の形をなおすように、うしろへ手をまわしたりした。ああ若しも私を嫌っているなら何うしてあんな風にする事が出来よう。娘は私を偸み見ては、少しばかり恐ろしそうに天をふり仰いだり、地面の草を摘む真似をしたりした。然も草の方へは気が行って居ないので、その茎を指でおさえても、摘み上げる術さえ知らなかった。もう娘は慌て返っていた。草を手ばなすと、今度は庭の樹の幹へ顔を押しつけて、じっと私を見た。私は此処で微笑んで見せようかと思ったが、用心深くそれを控える必要を感ずると、態々悲しそうにうなだれて、生け垣の前を通り過ぎた。それから又、もう本統に恋の悩みで面やつれているように弱々しく歩み返し、吐息をついて、生垣の前へ戻ると、そこに転がっていた五寸位直径のある石の下へ手紙をはさんで、一寸娘へ哀願するような一瞥を投げ、思い切ったように立ち上って、早足に其処を遠ざかった。私はそっと振り向いて見た。娘はじっと私を見送って、小さい門の所に立って居た。けれども未だ手紙を石の下から出す勇気は起っていぬらしかった。何でも彼の女は胸を高く波打たせて思案しているらしかった。
「そうだ。私の姿が見える間、娘は決して手紙を取り上げはしまい。明日が楽しみだ。明日だ。明日行って見ると、もう石の下には何もない。唯娘の眼がユッタリと頷ずいているのだ。おお之はもうたまらぬ事だ。」
 私はクスクスと笑ったり、又深い理由のない憂いに沈んだりして一夜を明かした。それから何時もの時刻に娘の家へ近附いた。娘はいくら見ても居なかった。悲しい落胆の予感が私の心臓を痛くしめくくった。何うしたのだろう。私は夢中になって生け垣の中をのぞいた。それから石を上げて見た。「アッ!」と私は早くも本式に落胆した。石の下には未だその儘で手紙が残っていた。悲哀と私一流の怨恨とが一時に私の意識を占領した。
 私は手紙をやぶり捨てるために、それを指の先でつまみ上げた。ああその時、実にその時である。
 私は烈しい心の動乱を覚えて、手紙を固く胸の上へ抱きしめた。鼓動は騒いだ。吐息が洩れた。ああ実に之は何たる不可思議であろう。私は手紙の表面へ「悲しいお嬢さん」と書いたのを記憶している。だのに、今私が抱いている手紙の表面にはそれらの字が消えて真白になっているのだ。インキ消しの薬が何時作用したと人は思うか。
「何て、うまい事だ。」と私は擽たそうに微笑した。その手紙は確かに娘からの返事であった。何と書いてあったか? 私はもう忘れて了った。けれど何でも、もう嬉しくて寒気がするような、有難い言葉が三つも四つも続け様に繋がっていたに相違ない、私は見えない娘へ何回もお礼を云って、生け垣を去った。半町も歩いて振り返って見ると、今迄姿を表さなかった娘が門の前へ淋しい水の精かなぞのように立っているのが分った。私は夢中になって、そのやさしい姿の方へ舞い戻ろうとした。娘は近寄る私を恐怖するように家の中へ逃げ込んだ。
「この位で丁度よいのだ。之が一番楽しい所なのだ。」と私は微笑んで呟くと、思い返して、その頃、宿にしていたある西洋人の家のキッチェンの屋根裏へと戻って行った。今日の楽しみが斯うして終りかけると、私はもう明日の楽しみを夢みる事に精を出し初めた。その時である。私が私服巡査につかまって了ったのは……
 けれど、くりかえして云う。私は斯うしてつかまって了ったのである。何んな手掛りで捕えられたかは私自身にも分らなかったが……
 新聞は私を嘲罵した。それで妹が世話になっている病院の院長に迄も私の暗い行為が知れ渡ったのである。其れが又私の仕合せの端緒となったのは何よりも不思議ではないか。刑を済ました私は院長に引取られた。とは云え何も病院内の職務に服さねばならぬ義務を課せられた訳ではなかった。遊んでいる苦しさから逃れるために、私はギブス繃帯掛りの役を与えて貰うように懇請した。それから平和な月日が無為と無事とをもたらしたのである。
 あの娘は何うなったかと誰か尋ねて呉れないだろうか。ああ時間程いけないものが又とあろうか。私は口惜しさと悲しさに身を刺された。私が刑を済まして後、あの生け垣を再び訪れた時、娘はもう生きていては呉れなかったのである。聴けば肺病が重くなって急に死へ急いだと云う事であった。そう云えば、私が通いつめた頃も、透きとおるように白い肌がいくらか不健全に見えていたのであった。
 あの娘を殺したのは此の私ではなかろうか。又しても暗怪な疑念が私の心に蔽いかぶさった。肺病には興奮や心配や落胆や悲哀が一番悪く影響するのを私は知っていた。私は彼の女を徒らに興奮させ
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