離散して了う事、かたがついて了う事、私はそれを喜んだ。が、元より悪魔の心を以てではない。あの恐ろしい諦めを持った印度の王子は彼の家系が散り失せるのを何んなに喜んだかを考えて貰い度い。彼は妃を尼にさせた。息子を独身の沙門にさせた。そうして汚辱が清め洗われたのである。此の虚無的な精神は悪へのみの加担者ではない。私が一家の飛散を快く思ったのも、寧ろ半分は善良な心からであり、汚穢を葬る必要からであった。私はその頃、決して子を造るまいと心を決めていた程であった。私は生前の父が母を始終流産させているのを見た。五人の子が流れ去ったのを、私は氷河を見る時のようにサッパリとした心で眺めやったものである。
「流れて行け、流れて行け。その方が何んなに仕合せだろう。」
その頃から私は水と生命との密接な関係を科学的にではなく、例の芸術的幻影として屡ば直観した。泡を吹く夕方の沼の泥に赤く腐った生物の眼を見出したのは一度や二度でない。霧が晴れかけている河の水面に、真青な怨めしそうな眼を見附けるのも造作ない事であった。私はスペイン闘牛士のように道楽半分の残忍性を以て云った。「あああれは人間の眼だ。今に私の手で殺される人間共の眼だ。」
此の予感は寂滅的思想で沈められた私の心へ、よく浮び上る所の恐怖であった。私は既に犬を殺しつけて居た。そうして、彼等の怨念は決して死後迄存続するものでないのを好く確かめていた。けれどむしろ彼等の死前に於て、怨念の予覚が私の心へ喰い入って来る事は度々あった。例えば私が仕事に出ようとして長靴を穿きかけていると、足が急にしびれて、靴へ密着して了う事なぞがその證拠である。私は靄の多い朝なぞ、随分と犬が死の予覚のために苦しがって鳴くのを聴いた。次手に云って置くが、犬は豚よりも死を厭うし、殺される時の苦痛が大きいようである。ある土人が犬を殺しては喰うのを見かねて、彼へ豚を代りに喰うようにと命令を下した西洋人は好い分別を持っている。豚を殺すのも犬を殺すのも同じ殺生だと考えてはならない。世の中には決して同じものはないのである。
犬を殺すのも、人を殺すのも同じ殺生だ。私は時々斯う叫んでは、それが誤った意見なのを悲しんだ。そうして水の上の眼、泥の中の眼を掻き消す事に努力したのであった。
けれども私は何うしてもあの疑いを捨て去る事が不可能であった。あの疑い? そうである。父は本統に床の上で自然に死んで呉れたのであろうか? おお私は此の上もなく惨めな人間ではないか。実際は床の上で胃癌の為めに死んだB市長の事を、公園で刺客にやられたのだと吹聴したのは確かに此の私であった。その時は自分が嘘を吐いているなどと云う一種の悲しく又喜ばしい意識を失っては居なかった。おおあのイライラとした口惜しいような歯痒いような然も体をじっとしてはいられないような虚言の快楽、私は確かにそれを享楽していたのである。所が今度は何うであったろう。母とその情夫とに向けられた疑惑の根は決して虚構の快楽から生え上っては居なかった。困った、と私は自分の額を打っては何度かたじろいだことであろう。之は殺人事件を仮想しては楽しむ私の悪癖が一層憎悪して来た結果に他ならないと云う決断を私は何んなにか要求したか? 然も要求したにとどまった。悲しい事に疑念は子を産み、蔓を伸ばすのを止めなかった。
その頃、私は又奇怪な話しに遭遇した。
「お前は知っているかね? スピノザは肺病で死んだことになっているが、実はアムステルダムの一医師に殺されたんだよ、デクインシーと云う人が其れを検べて、自分の著書へ公然と発表しているんだから、間違いはないのさ。それからカント……あの古手の大カントも例の散歩の道で殺されかけたのだぜ。刺客はジット大哲人の痩せた猫背をうかがったのだ。けれどその時ふと刺客は思いついたんだ。之はいけない。あの老人は、沢山の罪を背負っている。若し自分が殺すと、真逆様に地獄へ墜ちて行って了う。之はいけない。それで刺客はドンドン駈け出して了ったのだ。そして老哲人の身代りに、可愛い幼子をふんずらまえたのだ……」
「うむそれで何うした?」と私は暗い好奇心を以て前へ乗り出し、話し手の手首をしびれよとばかりに握りしめた。話し手は一寸たじろいた。
「それで……之から育つ果実のように生き生きとしていて可愛い幼な子の肉をぶちやぶり、小さい霊を天へ送ったんだ。刺客はもう感奮して声を立てて泣いたんだ。之であの霊は天国へ行けるって云ってね。」
「その刺客の心理が不明瞭だ、」と私は云った。
「不明瞭にきまっている。是非不明瞭でなくてはならないんだ」話し手は立ち去って行った。
私の疑念は憎悪して病気になって行きそうであった。私は話し手のあとを秘かに追って行った。彼は夜の細い道を右へ左へ折れた。
「おお、お前未だ私を追跡するか
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