て騒ぐ必要もありはしまい。如何にも、尊いものは稀である。だが、稀なものが必ずしも尊くはない。
その證拠として、私は今でも明瞭に思い出し得る一友人の日常に就いて語ろう。私は実を云うと、自分自身を語る目算なのだが、その目的の為めに、却って斯んな廻り道を取らねばならないのを悲しく思う。彼の事を話して置かぬと、私の話が出て来ない。だから、彼と云うのは煙火の口火に過ぎないのだが、実はもっと濡れて湿気の多い所のある男である。
「彼とは何んな男だ?」
世界には塵芥と同じ数丈の謎がある。一日中、人と会話しないでいてさえ「何?」が私の心の中で醗酵している。「彼? 何?」それを簡単に之から話そう。
私は一時自分が犬殺しをしていた事を全然忘却していた。其れを悲しく想起せしめたのは支那人の鮑吉である、そして、彼は私が犬殺し屋であったのを知ると、大変に悲嘆して私から段々遠退いた。其れは極めて自然の成り行きである。何故なら、彼は恐ろしい人間嫌いで、その代りに、動物植物の異常な偏愛者であったのである。然し、鉱物は彼の注意を少しも惹くことが出来なかった。奇妙である。
彼は竹が一番好きである。「竹と竹、コチコチ当る音、宜敷い。」と彼は好く云うのである。「竹の挨拶」と彼は其れを呼ぶ。
「世界で一番美しいものは何か。」と私が尋ねた時にも、彼は躊躇なしに答えた。
「雲雀! 雲雀、天の息を飲む。」
彼は自ら飼っている雲雀を朝早く空へ放ち、其れが帰って来て、彼の手の甲へ乗る時、嘴の先に附いている「天の気」――それは何かしら分子の様なもの――を自分の鼻孔へ吸い込むのである。何たる厭な形式であろう、然も此の形式を彼は仙人風に尊重し、何か魂の薬になる事だとさえ信じているのであった。
彼は又、日本趣味を多分に持っていて、色の殆どない様な朝顔、昼顔、芍薬、実につまらない断腸花、合歓、日々艸なぞを大層崇め奉って、その花や葉っぱを甞めて渋い顔をしたりする。彼は花を見ては好く感奮するが、然も実を云うと彼の霊は蓮根から出る糸の様に、冷たい、柔かい、青い、植物臭いもの、又ある種の虫の体臭も混入し、眠った、爬虫類の様にソッケなく、もし、何か光が出るとすれば、それは夜光虫のと同じで、水の中にある様なものでなくてはならない。それ程彼は沈み勝ちで、何だか、夜陰の川をゆっくりと流れる浮燈籠の様でもあった。
要するに、彼は一番真面目に生きていると信じ乍ら、然もやっている事が皆遊戯なのを知らぬ人間である。例えば、彼は蟻を夢中で見詰める。その夢中な有様は少し狂気を交えている。何も知らない蟻の方では、力一杯に腐った蛙の子を運んでいる。
「おお、何て一生懸命、可愛がってやらねば……」彼は涙ぐんで、蛙の腐肉を蟻の穴へと手伝って運んでやる。けれど、若し、街頭で子を背負い乍ら車の後押しをしている人間の女を見るならば、彼は眉をひそめて、態と眼を閉じて了う。「耐らない、汚い。」のである。彼は病気で歩けない雨蛙は好きであるが、本当の病人――私――なぞをあまり好かない。「此の蛙、風邪引いている。お湯飲まして、寝かしてやる。」之が彼の持ち前である。
或る男が、生きた竹を切っているのを見掛けた時、彼は額の上の方迄、眉毛を持って行って了った。実際、彼の眉毛は好く動く。そして、普段でも、眼から二寸位は離れているが、驚いたり、怒ったりする時は三寸五分位に隔たる。もっと驚いたら、後頭部の方へと廻って行って了い相な気さえする。西洋人は怒る時眼を瞠って、隠れていた白眼迄をも現すのであるが、支那人は主に、顔面へ既に現れているものを、頭巾を冠った頭部の方へ隠すのである。改めて云うが、彼は正直に怒って了ったのである。「それ、いけない。」
それにも拘らず、竹屋の前を通る時、死んで竿になって了っている竹が、亡霊の様に立っているのを見掛けたとて、彼は何とも思いはしないのである。「貴方、西瓜の果、食べる?」と掌へ乗せた黒い粒を私にすすめる丈である。
私は考えた。何故彼は人間の私よりも病気の蛙を愛し、人間の奴隷よりも働く蟻に熱中するのか。又切り掛けの竹を憐れがるのに、切られて了った竹を恐れぬのか。
最初の方の疑問は直きと解決される機会に到着した。彼が二寸方形位の写真のファインダーを、自分で造って持っている事から、私は気附いたのであるが、彼は自然大の自然物よりも、此のファインダーの擦り硝子へ映る小さい影像の方に、何れ程愛着しているか分らない。
「ああ、煙突からパーと煙出る。煙草よりももっと、小さい。それ可愛い。」
此処に於いて私は判定する。小さくなくては彼の愛を買う事が出来ない。蛙は人間を縮小したものとして彼の眼に映ずるらしい。
之は勿論全体を蔽う解決ではない。然し、重要な部分の様ではあるまいか。
次が、竹の生死問題である。彼は
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