断食し、死のうと思って歩き廻ったのです。そんな悲惨な事があって好いものだろうか? 然も、此処にある。此処に厳として存在する之は何ですか?
私は何うすれば好い? ミサ子は私の家へ来るより、残酷な父の許にあった方が幸いだった。父の家にいるよりも、あの小鳥屋の店にいた方が仕合せだった。取り返しのつかない事ですが、私は番いの紅雀を斯うして病室へ運んで来ました。来るには来た! だがもう見て呉れる眼が閉されて了っている。」
気が附かずに居たが、窓際には小鳥の籠がかけてあったようである。ハッキリは分らぬが、何でも、あの小鳥の鳴き声――節の終りの所で、物問う様に、調子を上げるその声が、恰度、悲愁を持った懺悔の聖歌の如く、私の耳へ幽かに入って来るようであった。
だが、その事ではない。鳥の声なぞは何でもない。私は、もう言葉が出ない。何んな風に云い表わそう。戦慄なぞと云う文字さえ、一つの弱々しい遊戯としか感ぜられぬではないか。恐怖、驚愕、そんな文字が何か? 私の心持の何十分の一が、それに依って伝えられよう。
駄目である! 私は歯痒くてならない。
聴き手よ。貴下は竜巻を見た覚えがあるか? 黒い煤のような雲が、地面の直ぐ上に迄降りて来て、砂が一本の筒のように上へ吸い上げられ、其処に迷っていた幼児が帯を持ち上げられたように、空中へ飛ぶ様を見なかったか? 或いは大きな塔が割れて、その裂け目から、青と赤との焔が出る所を見なかったか? 或いは、そうだ! 重い馬力車に老いた女が轢き殺されて、貴方の眼前で血を鼻と眼とから流し乍ら、見る間に生から死へと急転する顔面の凄じい色を目撃した覚えはないか?
そんな時の恐怖や驚愕や戦慄に数倍した渦乱のような激動を、私は身体の凡てで感じたのであった。
何と云う凄惨な有様。そして、之が私と密接な関係を結んでいる。それが恐ろしくなくて好いであろうか!
床の上へ落ちている毛の一本さえが、私の爛れた心を針のように刺す。そして、何万本と云う髪の毛が――全く光沢を失って、ミイラのそれのように、べッドから垂れ下っている。私は血が凍り、唇や鼻や眼の球が冷たくなって行くのを感じた。
「ミサ子さん!」私は思い切って絞り出すような声をして彼の女を呼んだ。ああ、実にその時、その瞬間、ミサ子の眼は静かに開かれ、そして私の方へと柔和な視線が流れた。それは見る間に、物凄い絶望の色を示したと思うと、又静かな物柔かさに戻って行った。此の微細な雲行!
おお、彼の女はその時、笑った、笑ったのである。微笑んだのである。奇蹟のように、神秘に、不思議に意味深く、淋しく、柔しく、純真に、後悔しているように(そして何よりも明かな證明だ。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]深く深く私を愛しているように……
「ミサ子さん!」私はよろめいて彼の女の方へ進んで行ったが、又厳粛な心に釘付けされて、その儘真直ぐに立ちすくんだ。
軈て静かな微笑は消えて行く煙のように、彼の女の痛ましい顔面の上を去った。再び眼は閉じられ、苦し相に顎を動かしてする呼吸のみが聞き取れた。
「可愛想に、貴方の声を好く覚えて居て、あんなに柔しく微笑んだのです。」教員は手を顔に当てて我慢しきれない泣き声を圧えた。「之で、もう直き死が来るでしょう、安心して死ねるでしょう。」
「許して下さい。」と私は顫えて彼の女に縋ろうとし、又教員に寄り附こうとした。けれど私の足は堅く釘附けにされ、私の腕は縛られているように動かなくなった。
それから何うして、其処を逃れ出したのか、私はもう語る事が出来ない。唯明白なのは私が駈けて、そしてあの断崖の近くへ迄行きついた事実丈である。私は風で揺れ廻る長い草の中に身をひれ伏し、雲が低く動く空へ声を放って泣いた。心は狂い、苦しみ、鞭打たれた。眼は何か黒い流れや斑紋を幻覚し、あらゆる血管を後悔の蛆が游ぐのを知覚した。
微笑! それが恐ろしいのである。何んな怒りの形相が私をそんなに迄身顫いさせ得るだろうか? 誠実な微笑! 私の体は痛み、私の身は皮を剥がれた蛇のように藻掻いている。その微笑! 一番純真なものが、私の汚れた行為に対して報いられている。ああ、その一瞬の微笑に一生の生命が賭けられている。そんなにも価値の重い深遠な荘重な戒めが何処に又とあろうか。
「私は後悔しています。けれど心の底から貴方を愛しています。」と語りそうな微笑! 私は今後何うしてそれに報いる事が出来るであろう。いや、何も考えられない。そしてもう何も出来ない。彼の女は最早死んでいるではないか? 私は何かしようとして動いている。けれど、一切はもう遅れている。晩過ぎる、それ丈が漸く分るのだ。
私は風に揺れる草の中に転んで何者かに許しを乞うた。皮を剥がれた罪深い蛇のように、自分の浅間しい体に驚いては
前へ
次へ
全37ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松永 延造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング