かったんです。許して下さい。そして、あの人の所へ行って下さい。何も彼も秘密にして……」
「私は、斯うなるのを予期して、もう早くから諦めていました。貴方はもう私を嫌ってお出なんです。皆察しがつきますわ。貴方は三度目に会った時、もう私に厭きているんですね。何て悲しい、けれども吹き出したいような可笑しさでしょう。斯んな事がそう方々にあるとは思えませんわ。」
「貴方はもっと素直な花嫁になって下さい、私が邪魔をしようが、すまいが、何うせ貴方は初めから処女と云う訳ではなし……。」
「何です? 聞えませんでした。も一度、も一度、云って下さい。」彼の女は私の胸に喰いついて来た。そして、私の顔を眤と窺った。闇が濃く流れて、何も見えはしなかった。
 私は厭きて了ったのである。
 彼の女は諦めていて、それを恨まずに唯泣いたのである。おお何たる奇怪な夜であったろう。

   恐るべき微笑

 狂暴な悔恨が再び私の胸を喰い破り、肋骨を痛めつけずにはいなかった。何う云う風に彼の女へ謝罪す可きか? 何んな風に教員へ弁解す可きか? それとも一層何も云わず、一切を秘密に付し、私丈他の都市へ去るのが、皆を幸福にする唯一の手段ではないだろうか。
 私は出来る丈善い行いをしようとして、然も斯んな恐ろしい罠へ落ち込んで了っている。脳髄は腐敗して了ったように、もう役に立たず、思考力を集注しようとすると、軽い眩暈が起って来る丈であった。
 けれど、そのような懊悩は一ケ月位で消散し初めた。そして、私の眼前には時間につれて色々の事件が生起した。ミサ子は約束通り教員と結婚し、悪い父親とは金銭を与えて縁を切った。若い二人は大変睦まじく日を過しているようであったが、何故か急に転居して、住所が不明になった。私はその頃遠慮して教員を訪ねた事もなかったのである。[#底本では、「のでる。」の誤り]
 転居と同時に、ミサ子の行衛が不明になった事、誰かが、何処かの停車場で、彼の女を見掛けた事、彼の女は汽車の中に眠っていて、下車す可き駅を乗り越していた事、なぞが噂された。私は淋しい悔恨の生活を続けつつ、それらの話に可成りな注意を払い、興味以外の同情を以て物を見るように心を落ちつけていたのである。
 俄然、もっと大きな破壊が起って来た。
 私は考える事が出来ない。けれど、起った事は凡て悲しい事実なのである。
 ミサ子は森のある断崖から、何丈か下の砂路へ飛び降りて、自殺を計ったのであった。
 彼の女は死に切れないで、病院へ連れて来られた。けれど大きい怪我――諸所の骨が破れたらしい――は、もはや彼の女を三日と此の世に置く事を許さなかった。
 教員は何時もの柔和な言葉つきで、彼の女の死ぬ前に一度丈会ってやって呉れと私に嘆願した。
「何故です?」と私は恐怖してたじろいだ。
「今度の事件は少しばかり貴方にも関係があるように思えますし、屹度ミサ子は貴方に会いたがっているに相違ないのです。」之等の言葉の中には一つの怨恨も憤怒も含まれていなかった。それどころか、教員の眼の中には、澄んだ涙が湧き起って来て、私に憐れみを乞うている如くにさえ見えた。私は顫えて彼の肩に靠れ、進まぬ足で病院に向った。それから?
「さ、貴方の待っている人が来たよ。ミサ子!」と教員は悲愁の限りを尽して云った。けれども人事不省に落ちているらしい女性は眼を開く事が出来なかった。之は何たる急激な変化であろう。
 教員は深い嘆息と共に、私の方を顧み、そして世にも哀れな面持で、語り継ぐのであった。
「聞いて下さい。おお、見て下さい。この凄じい痩せ方を! 家を出る時、たった一円八十銭しか持って居なかったミサ子は、それを全部出して、汽車の切符を買って了ったのです。何故汽車へ乗ったか? 何処かへ逃げる積りだったのか? そうではない。唯進退谷って、もう行き場がなくなったのです。世界は斯んなに広いのに……罪と痛みに追われる者は、その中に安心して住む所を見出し得ないのです。可哀相なミサ子! お前は何処か遠い停車場迄用もないのに乗り越しをして了った。それから、きっと歩いて息を切って、再び此の街へ帰って来たのだ。お前はそんなに無駄な骨折をしながら、迷って泣き暮したのだ。きっと野原や知らぬ家の物置やに眠らねばならなかったろう。ああ誰れが云うか――野原に寝る少女は不良だと! いや、その少女を野に眠らせるようにする私達の方が……私の方が……何んなに不良だろうか! 見てやって下さい。見て……。僅かな日の中に、ミサ子は斯んなに痩せ細って、年を取って了った。悩みで痩せ、それから断食で細ったのだ。何処かの泉で飲んだ水は、皆涙になって了ったんだ。斯んなに眉毛が取れて了って、そして、恐しい事に、髪の毛があんなに抜けて落ちる。
 断食……ミサ子は態と食べずに居たに相違ない。死のうと思って
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