牛肉の配達夫へ、いきなり声を掛ける事が出来た。
「お前は、自分の配達してるものが喰いたくはないかい?」と彼は対手の肩をたたいた。
 配達夫も亦、この行為をいぶからなかった。尤もそれが彼等の礼儀なのである。
「喰いたくもなるさ。けれど、私の厭に思うのは、自分の飢えている事じゃないよ。自分が何かを人に与え得ぬ事だ。」と配達夫は答えると、黒い表紙の書物で、青年の肩を打ち返した。その書物は聖書だったのである。(その頃は未だ下層者の間に多くのクリスチャンが居た。)[#「(」「)」は、「(」「)」が二つ重なったもの]
「ウム、そんな事もあるな。たしかにある。私の知っている貧乏な雇人は、ある大尽の家の子に、一銭を握らせて、大きな声を出し乍ら飛んで帰って来た事がある。奴は善い行いをしたのか……それとも復讐をしたのか……自分でも判らないのだ。唯、俺は与えたぞ、与えたぞと叫び乍ら、地面へ、へたばって了やがった。」と青年は厭な表情をして答えるのであった。
 と思うと、青年は全く未知な他の労働者に肩を打たれる事がある。
「ヤイ、何をボンヤリしてるんだ。貴様、自分で立っているのか? それともそこに落っこちてやがるのか?」と未知の男は叫んだ。それが矢張り礼にかなっているようでもあった。
「落ちているんだとも。だが、そりゃ、上っちまうより安全なんだ。」と我が青年は答えた。
「洒落やがんない。俺が分らないのか。今俺の友達の奴はな。蒸し釜の蓋のネジがゆるんだんで、それを締め直しに、大きな釜の上に登ったんだ。それから、ネジを締めたんだ。すると、ネジの奴、金が古くなっているんで、ポサンと頭がモゲやがったんだ。おい。こっちをちゃんと向かねいかい。それで、釜と蓋との間から、蒸気が噴き出して来てな。その力で他のネジも皆一偏に頭がモゲて、パーンと云うと思うと、もう工場中は湯気で真白に曇っちゃったんだ。すると、上の方でポーンと云うんだ。ハッと思って見ると、屋根が吹き飛んで、大きな穴から青空が見えるじゃないか。そして、ああ、眼をつぶって呉れ! 俺の友達の奴……まるで吹き矢の矢のように、その穴から、空へと吹きっ飛ばされやがった。急いで外へ出て見ると、俺のすぐ前へ、ドサンと肉体が落ちて、弾みもしないで、タタキへのさばりやがった。グサッと音がしたんだ。おい。こっちを向けい! 友達はそれでも死ねないで、唸りやがった。『苦し
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