い、苦しい、』と叫びやがった。当り前よ苦しくない訳が何処にあるんだい。」酔い痴れた未知の人は、そうして自分の道を歩いて行って了った。
 青年は暗い顔になって呟いた。
「人がそんな風に鞠のようになって好いのか? 人が?」
 けれども読者よ。人は色々な人間らしからぬ別のものになる虞れがある。現に此の青年も何かしら他の玄怪な存在になりかけているのであった。それを證明するため、私は彼の自伝をここに掲げたく思う。
 次の章に於いて、今後「私」と云うのは、実に「彼」の事なのである。もしくは「何時か善良に帰る傷ついた霊」の事なのである。

   玩弄さるる美

 一番初めに云って置きたいのは、私が物質上の貧困者であるに拘らず、贅沢過ぎる心を持っているという悪い惨めな点である。斯んな外部条件中に投げ出された斯んな霊と云うものが、何んな変化を取って行くか。
 単に空虚な妄想を追う事の他に、私はもっと現実に接近した慰安を求め得なかったであろうか。人々は次の言葉を何と思うか。
 妄想と現実との中間に座って蠢めく私は、確かに又、仮定と実際とを折衷しつつ何かしら、諦め深い、そして優雅を通り越して、児戯に近附く類の慰安で自分を飾り得たと思っていた。例えば、何んな紙――物理的に汚れて鼠色になったのでも、化学変化の為めに黄褐色になったのでも構いはしない――でも自分の手に入って来ると、私は其れからエジプトのスフィンクスを切り抜き出したものである。成程、自分の前には平面なスフィンクスが幾匹か現れて来る、之は物質に形を借りている。唯平面である点に、多量な妄想と空想が盛られているのである。私は何うかせめてバスレリーフとしてのスフィンクスをセルロイドからでも刻み出したい。それは此の惨めで汚い貧困に聊かでも敵対する心の贅沢である。
「厭な人間だ!」私の聴き手は斯う私を舌打ちで鞭打つだろう。けれど、私は一人の病み患う子供の様なものである。肉を蝋にして燃しながら、空想の焔の糧にする程、静かに座っているのが持ち前の人間である。斯んな男に附き纏う貧困こそは悪性のものに相違ない。賭博者、ピストル丈を商売道具にする男、単純な無頼漢、彼等に絡《まつ》わる貧困の方が、まだまだ私の類よりは光明を持っている様である。
 宜敷い。私は独りで居よう。昔式の巡羅兵が持つ蝋燭の灯の廻りを黒いガラスが護る様に、兎も角も、私の四壁は他人から
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