、何とも云えない喜びである。」
我々は思い出す。自動車に乗った、さっきの母子は、唯街路の一角を通ったに過ぎなかった。けれども、その影は運転手の手紙と共に、田舎へ走り、老いた農民のもとに居り、転んで起きられぬ子供のそば近く歩み、鳩の巣のほとりに、思い深くもたたずんだのである。至極あたり前の深切、一寸した思いやりも、それが命を持って居る故に、水の輪のように、動いて他の方へ行くのは面白い事である。
(おわり)
読者は倦怠したであろうか? 振り返って云うが、私の小品というのは以上の如きもので代表されるのであった。それは簡単で、従って未熟であろうか? 私が教員時代に学童へ向って熱心に話した訓話の痕跡が取り切れて居ないと、読者は叱責するであろうか。
それは何うでも好い。話は実に之からなのである。
機縁とは何であるか? 何処が初まりで、何処が終りなのであろうか。私には何も分らないが、或る雨の日に、ある濡れた青年が、私を訪ねて来たのは確かな事実である。
彼は幾分か私を尊敬する風であったが、そうかと云って彼自身の傲慢を強いて隠す程でもなかった。彼は概して陰鬱であり、時に不思議な嘲りに似た笑いを洩らした。彼は一個の労働者であると告白したが、そんな低い階級に似ず、恐らく私も及ばぬ知見を持っていた。
彼は自身が経験した或る事件に就いて、一つの伝記風な小説を書きかけている事、それを順々に見て貰い、批評して貰いたい事を私に告げた。
「私が何んな奴だか、今に皆別って来ます。すっかり分って了います。」と少し気味悪い動作の青年は悲し相に舌をふるわした。
軈て私は何を見、そうして驚いたか!
私の嘗て知らない不思議な世界が此処から開け初めた。青年の文章は暗い光とでも云う可きものを以て私の胸を照らした。此処には「神聖なものへの反抗」があり、私の心の中には見出せない複雑な考えがあった。
「悪」それが主位を占め、そして君臨する所の精神を、私は単なる心理学的興味からでなしに、もっと異様な驚きと嘆きとで見入った。私はそれに引つけられ、又蹴はなされた。それにも拘らず、私は彼の青年へ何処迄も接触して行こうとする勇気の為めに立ち上った。ああ此の青年が何んなに私の平安な生活を破壊して呉れたか? それは後に皆明白となるであろう。
彼の青年は確かに私達とは別な性質を到る所で発露した。たとえば、彼は面識なき
前へ
次へ
全73ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松永 延造 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング