た。斯んな老人と云うものは、決して若い者へ自分の弱身を表わさないのが普通であるのに、何うして彼は斯んなに老人的高慢心をなくして了ったのであろう。
「ね、お前、私は妙な癖に落ちている。一つの悔恨を想起すると、直ぐそれに関連して他の悔恨が、又それに引っかかって、更に古い悔恨が出て来る。斯うして三分の間に一生の悔恨が塊りになって私の心を押したおし、何が何だか分らない総括的なつまり象徴的な悲痛であたりが真っ暗になって了うのだ。」
 私は以上の言葉に正直な注意を向けた。そして院長が少しも偽りを云っているのではないと云う直覚で院長へ同情した。然し不思議ではないか。何故院長は不信用な私へ向って斯んな懺悔を敢てするのか?
 私は一つの推定法を知っている。若し女が自分の悲しみや苦しみを一人の男へ訴える場合がありとすれば、その悲苦が何んな種類のものであろうと、結局彼の女自身の恋愛を打ち明けているのだ。
 若しも院長が女性であったなら、彼は明かに私へ恋を打ち明けている事になる。彼は静かに足を忍ばせて私一人の居る室へ来た。そして、誰も聞かぬ所で、私に彼自身の悲しみを話しているではないか?
 私には分らなかった。分る訳がない。
「先生は私にその悲しみを打ち明ける為めに、私を此の室へ眠らせたのですね。それが本統の目的で、私の頭を平静にさせるのなんか、二の次若しくは三の次なんですね。」私は快活に笑った。
「いや、そう思われては困る……」と痩せた老人は皺だらけな笑い方をした。そして泣き相に興奮して私を見詰めた。それらの行為は皆決して尋常ではなかった。何かしら秘密が影を造って、我々の間を暗くしていた。
「それは……お前は可愛らしい。それに相違ない……」と軈て彼は独語する如くに云い捨てた。「けれど、お前が可愛らしいから、私が悲しみを訴えると思い取っては困る。私は色々のものを恐れるが、その中でも一番誤解を恐れるのだ。」
 此の言葉は私を一驚させた。他の目がない所で、一人の相手に悲しみを打ち明けるのは、恋を打ち明けるのと同じだと云う推定法を此の老人も心得ていたのである。
「奇態ですな……」と私は一人で云った。
「全く、奇態と云っても……まあ好いだろう……それに近い。」と院長は無茶苦茶に答えた。彼は又慌て出していたのである。
「例えば此の壺だが……」と老人は稍悲壮な表情になった。私も眤《じ》っと壺を睨めた。
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