》けが病室から孤立していた、それも道理で、一時は其処が布団部屋にあてられていた事もあったのだが――を見舞ってやろうと決心した。
 私は夜の九時を報ずる遠い大時計の音を幽かに聴き入りつゝ、蝋燭の灯を消さぬよう、出来るだけ静かに、階段を踏み下って行こうとした。そして、上からじっと下方の闇を窺《うかゞ》った時、何かしら自分の行く先が、泥水に満ちた深い谷間のように思われるので、自然と足の進みを躊躇《ちゅうちょ》せしめた。
 然し、私は遂にその谷間の最下へと達した。そして、閉ざされた室の扉を静かに開いて内部へ這入《はい》った時、私の予期は不意に其処で破壊された、というのは、一つの人影も、白いベッドの上には見出せなかったからである。
「ミスタ、ラオチャンド……」と、私は自分をも不快にさせる程な反響を持った声で、呼んで見た。
 答えは極く低声に、ベッドの向う側から湧き起った――全く湯気の如く落ち着いた調子で、下方から浮き上って来た。私は直ぐその方向へ回って見た。そして、更に新らしい驚きで、自分を戦慄《せんりつ》せしめた。(当時、私は若い新参者で、未だ、病院内の一切の事に無経験だったから、精神は白紙の
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