遇すると、しばしば烈しい悩乱となり、後者は自己の不幸に遭遇すると、しばしば孤立的な枯渇を来すものらしい。
 私の眼があやまりでなくば、ラオチャンドは遂に、冷い理性の捕り児となった事を、行為の端《は》し端《ば》しに表した。
 けれども、仕合せな事に、彼れの身体の方は段々と盛り返して行った。そして、しまいには、僅かずつの歩行を医師から許されるようにさえなった。
 或る月の明らかな夜である。彼れは何を思ってか、二階の物干し台へそっと一人で昇って行こうとしていた。鉄の梯子《はしご》へ縋《すが》って、月光の下にうごめく彼れの後ろ姿を目撃した私は、一種危険な気持ちに打たれて、思わず、足を早めつゝ、彼れのあとを追った。(何故なら、その一週間前、施療部の一肺患者が寝台の鉄柵へ帯を懸けて、首を縊った。非常な努力を以てでなくては出来ぬ、蹲《かゞ》んだ儘の縊死を、この機会に私は初めて実見したのであった。)
 私が台上へ達した時、ラ氏は既に東寄りの手すりへもたれかかって、遠く居留地の方を眺めやっていた。
「少し動き過ぎますね。」漸く彼れに追い着いた私は、なじる心を混ぜて、そう呟いた。
「それに笛なぞを持って、何うするのです? 吹くのは未だ早過ぎます。」
「いや」と、ラ氏は奥深い眼を五六回瞬いて言った。「之はたゞ占いです。」
「笛が……?」
「そうです。今、何時ですか?」
「大時計は九時を打ちました。」
「では、もう過ぎている。」
 彼れは私が暫く其処にとゞまって、彼れの為す所を、横合いから観察していて呉れるようにと願い、幾何もなく、一つの珍らしい情景が眼前に表れるだろうと予告するのだった。
 十分程もすると、暗い梯子の上り口へ、一つの首が浮上った、首につれて胸、胴全体、そして足の先迄がせり上って来た。
 見る見る、その影は軽い足取りで、ラ氏の方へと歩み寄って来た。影というのは、之もアリヤンの若い女性、名は覚えて居ぬが、何でも当時、日本へ渡って来たばかりの、乞食に等しい貧困者であった。それにも拘らず、彼の女の体は薄い白絹に包まれ、彼の女の手首には、恐らく象牙製と思われる腕輪が三つも重なっていて、それらは彼の女が耳なぞを掻くため、腕を持ち上げる度に、快い音響を発しつゝ、打ち合った。
(私は以前にも一度、此の女に会った、その時の記憶によると、彼の女は卵形の輪郭をした顔を持ち、乳へココアを混ぜたよ
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