》けが病室から孤立していた、それも道理で、一時は其処が布団部屋にあてられていた事もあったのだが――を見舞ってやろうと決心した。
 私は夜の九時を報ずる遠い大時計の音を幽かに聴き入りつゝ、蝋燭の灯を消さぬよう、出来るだけ静かに、階段を踏み下って行こうとした。そして、上からじっと下方の闇を窺《うかゞ》った時、何かしら自分の行く先が、泥水に満ちた深い谷間のように思われるので、自然と足の進みを躊躇《ちゅうちょ》せしめた。
 然し、私は遂にその谷間の最下へと達した。そして、閉ざされた室の扉を静かに開いて内部へ這入《はい》った時、私の予期は不意に其処で破壊された、というのは、一つの人影も、白いベッドの上には見出せなかったからである。
「ミスタ、ラオチャンド……」と、私は自分をも不快にさせる程な反響を持った声で、呼んで見た。
 答えは極く低声に、ベッドの向う側から湧き起った――全く湯気の如く落ち着いた調子で、下方から浮き上って来た。私は直ぐその方向へ回って見た。そして、更に新らしい驚きで、自分を戦慄《せんりつ》せしめた。(当時、私は若い新参者で、未だ、病院内の一切の事に無経験だったから、精神は白紙のように傷《きずつ》き易く、印象は墨の斑点のように明瞭であった。)
 外でもない、友人ラオチャンドは板の間へ一杯に青色のシャツを敷き広げ、その上へ蔽《おお》いかぶさって、二銭銅貨五個分程の血を、丁度シャツの背筋の所へ吐いて居たのである。
 彼れは哀訴の心を籠めた眼差しで、私を下から見上げ、次に、鼻孔へ迄も回った血液を口中へと戻すため、鼻をすゝった。
 四つ這いになった彼の[#「彼の」は「彼れの」の誤記か]長い身体、白い靴下の穴からのぞく、薄黒い足の裏、血に染って赤くなった大きい門歯、苦痛の涙に濡れた長い睫毛《まつげ》――それら全体は、より所もない孤独の感じで、細かく波打っている如くであった。

     三

 翌朝は殊に麗《うらゝ》かな晴天であった。
 私は廊下に漲《みな》ぎる輝かしい光線の為めに、眼球の表面を刺激された挙句《あげく》、網膜に斑《まだ》らが出来たような不快な感じを抱いて、再びラオチャンドの室へと這入って行った。
 彼れの頬はやつれはてて、風で乾いた泥のように、色沢を失い、彼れの眼は空虚の中に尚お何者かを探し求める如き冷い光を見せていた。
 と、彼れは私の口を大きい指で指
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