日本史上の奧州
原勝郎
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抑も奧州地方は、多くの場合に於て出羽と併稱し、奧羽と云ひならされて居るのであるけれど、しかし日本海を負ふ所の出羽と、太平洋に面して居る奧州とは、歴史上必ずしも一概に論じ難い點が多いのである。北陸道からして海傳ひに開けた出羽と、主として常陸下野から陸路拓殖を進めて行つた奧州との間には、日本文明波及の點に於て少からぬ遲速の差のあつたこと明かであつて、一方は阿曇比羅夫時代に既に津輕まで屆いて居るのに反し、一方は日本武尊東征の傳説を除いては、之と比肩すべきほどの事實を見出すことが出來ぬ。奧州の方面に於ては彼の有名な白河の關なるものがあつて、これより以北は支那でいふ荒服の地同樣に目せられて居つたことは今日に傳はつて居る數多の文學其中にても卑近な例を擧ぐれば能因法師の作として人口に膾炙[#「膾炙」は底本では「※[#「口+會」、第3水準1−15−25]炙」]して居る「都をば霞と共に立ちしかど」の歌、降ては梶原源太景季の「秋風に草木の露を拂はせて」の歌等に徴しても分かるのであるが、出羽の方には此白河の關ほど經界として明かに認められて居るものがないといつてよい。鼠ヶ關(念種關)などいふ所もあるけれども、奧州の方の咽喉なる白河の關の如く世に知れ渡つては居らなかつた。つまり昔の日本人が出羽をば奧州程に半外國扱をしなかつたことは、此例によつても分かるのである。越(古志)といふ汎稱につきては、從來種々の議論もあるやうではあるが、予は之を以て、北陸道から出羽津輕及び北海道の少くも西部を包括する所の總名であつたと考へるのが、穩當であると信ずるので、一方に於て和銅年間に越後を割いて出羽の國を置かれたのは、日本港岸の拓殖の大に進んだ證據であるのに、之に反して太平洋に面した方の常陸以北は、日本に於て文化の浸潤の最も緩漫であつた地方といふべきで、若し和銅年間に郡家を閉伊に置いたといふ事實を大げさに考へるとすると、當時奧州の拓殖も出羽に劣らず捗つたとも想はれるのであるけれども、之果して如何であらうか。其所謂郡家なるものが今の閉伊郡の何の邊であつたかは不明であるが、多分は海岸に近い所であつたらうと想像されるからして、若し彼の「黄金花さく陸奧」といふ其黄金が、果して今の遠田地方から出たものとするならば和銅の郡家も、之を閉伊沿岸でも氣仙界から餘り離れぬ邊に置くのが安全であるのである。若しさうでなくして陸路拓殖を進めた結果として閉伊に郡家を置いたとするならば、前九年の戰などは、少し説明しにくゝなる恐れがあらう。つまり此和銅に郡家の置かれたといふ事は、察するに太平洋沿岸の航海區域が一段北に延長した爲と見るべきである。今日でも京都附近の神社に縁りのある神社が、出羽の方に多くして奧州の方に少く、又出羽の羽黒山の如く早く靈場として開け、且つ都人士の間に有名になつた山の、奧州の方に見出し難いことなども、予の上述の假定説を慥かにする種と考へて不都合がなからうと思ふ。大體拓殖の進んだ程度を以て比較すれば、奧州の方は藤原時代に至つて、漸く王朝の出羽位に開けたものだとするのが適當であらう。然らば何故日本北端の兩半に斯かる差異が生じ、且つ其差が久しく消えなかつたかと云ふに、出羽奧州兩國の關に連互して居る脊梁の大山脈が、兩國相互間の交通に尠からぬ妨害をなして居つた爲と見る外はない。同じく山脈の中でも、南北に走る山脈は、東西に走るものよりも、餘計に交通を遮斷するとの説が、人文地理學者中に唱へられて居るのであるが、陸羽間の山脈は即ち此後者に屬するものである。今日でも陸羽を聯絡する山道の數は少く、且いづれも峻嶮であるによつて推せば、昔は其數更に少く、且つ一層難澁な峠であつたに相違ない。中尊寺に近い所でいふと、前九年の役に、清原武則の率ゐた出羽の軍勢が、松山を越えて、磐井郡中山大風澤に著陣、翌日同郡萩の馬場に著、此所は小松柵を去る事、僅か五丁餘なりと云ふ記事が、傳はつて居るから、一ノ關附近にも當時陸羽聯絡の通ひ路が一筋あつたらしいのであるが、抑も此道路たるや今日通行者のさまで繁きものでないのによつて見ても、當時は今にもまさる惡路であつたと見做さゞるを得ない。此より以北になると、彼の文治の頼朝の奧州征伐の時に、出羽を進んだ側衞が比内から東に越えたといふ山道、これは多分今の仙岩街道でもあらうか、それを泰衡の首級を携へて降人がやつて來たといふ今の鹿角街道、その外には同じく鹿角から馬淵河の流に沿ひて海に出づる通路、以上三筋程あるのみで此外に藤原時代の終り迄には、陸羽を結ぶ交通路とてはなかつたらしいのである。而して出羽奧州兩國間の交通果して此の如く不便であるとすれば、假令出羽の方の文明が、昔の奧州に比して一段進んで居つたものとしても、この優秀文明が直に奧州の方に影響するといふ譯には行かぬ。要するに日本國中最も廣く仕切られ、且開發の最も久しく停滯して居つた地方は即ち奧州で、其奧州の中でも殊に北上川流域、及び其以北に走る舊南部領などは、當時の日本全國中何處よりも進歩の遲くれて居つた地域と見做すを得べきである。
此の如き日本のはてともいふべき奧州も漸次に王化に霑うたことは言ふを須ゐないが、前九年役の頃までは、所動的に霑うたといふのみで、自ら働きかけて上國の文明を輸入するといふやうな努力の痕跡が見えぬ。して見ると中尊寺を立てたり、佛像を上方の佛師に誂へ造らしめたりするやうになつた平泉中心の、即ち藤原時代の奧州は、阿部氏以前の奧州に比して、莫大の進境があると云はねばならぬ。而してこれは當然斯くなるべき筈のことであつて、遙か後世の今からして昔を回顧すれば、阿倍時代と相距ること、甚だ遠からぬやうにも思はれるけれど、計算すると前九年役の終りから文治年間の泰衡征伐までには、其間約百廿年の[#「約百廿年の」は底本では「約廿年の」]歳月を經て居るからには、進歩の遲い奧州とても、可なりの進境なかるべからざる譯である。然らば此進歩を促がしたことに與りて力のありしものは何々かといふに、奧州から上方に、觀光に出かけて歸つた人々と、上方の人士で遙々奧州に下り、優等なる文化の種を邊陬に撒いた人々と此二樣にある。上國から下向した者の例に就いては、花かつみの歌に風流をとゞめた流人實方卿の[#「實方卿の」は底本では「實力卿の」]如き縉紳は云はずもがな、前九後三の役に從軍して、家族移民をなした下級の者も等閑に附し難い。其外にも平泉藤原氏以前に於ては、若し奧州後三年記の記事を信じ得るとすれば、清原眞衡が其「護持僧にて五所うのきみといひける奈良法師」と碁を圍んだといふ話がある。平泉藤原氏時代の始めには、散位道俊といふ者が、清衡の許に赴き、弓箭の任に堪へざるを以て、筆墨を以て之に事へたと、三外往生傳に見えるもある。また良俊といふ公卿の清衡をたよつて陸奧に下向したのは、これ五位以上の者猥りに京畿を離るべからずとの制禁を蔑如し、國家に背きて清衡に從つた者であるとて、其廉を以て相當の制裁を加へむとの僉議があつたことが、中右記天永二年正月廿一日の條に載つて居る。なほまた同じ清衡の妻が、其夫の歿後上洛して、檢非違使義成といふ人に再嫁したといふことが、長秋記大治五年六月八日の條に見えて居るから、此妻女も元は都から下つて、清衡に連れ添つた者と推察される。さもなくて、もし此女人が奧州生え拔きの人であつたならば、斯かることには成るまいと思ふ。此の如くして或は身輕な、漂泊ずきな僧侶或は京都で生活難に追ひ立てられたはした公卿、さては大膽な婦人などの、遙々奧州に罷下るといふことが、清衡の頃及び其以前から既に時々あつたとすれば、まして基衡秀衡と代を累ぬるに從ひ、斯る族の愈※[#二の字点、1−2−22]多くなつたことを想像し得られる。扨て此連中の大部分は、何か己に利する所あらむと欲して、遠路を厭はず奧州くんだりまで下向した者共で、必しも邊陲の開拓を思ひ立ち、それが爲に奇特にも態々出張したのではない。現に前述の清衡の妻と稱する女などは、其上洛の際に夥しき珍寳を持參したと記されてある。しかしながら彼等の下向の目的が那邊にあつたにせよ、上國の文明が、彼等の力によつて、徐々と奧州に輸入されたことは、蓋し疑を容れざることであらう。
それと逆しまに、奧州の方から上方に出かけた人々に就いては、姓名の知れて居る者が少いが、しかし其實は多數あつたに違ひない。久野山縁起には、平泉館師忠の子僧源清の事が見える。恐らくは久野山のみならず、僧となつて京洛に住した者もあつたらう。又清衡は志を叡山に運び、其千僧供の爲めに七百町歩の保を立て、其後此莊園が次第に擴張されたといふからには、其等の用向で上る人も勿論あつたらう。貢賦に關しては頼長の台記で其一端が窺はれる通りであつたらうし、中尊寺建立の爲めには、殊に往返を繁げからしめたであらう。續世繼(みかさの松)に見ゆる、基衡が其寺の爲めに仁和寺に依頼して勅額を乞ひ下したとの事、既に以て秀衡以前に京都式文物の摸倣に就いて、少からぬ努力のあつたことを證するのであるが、秀衡の時に至つては、單に京都のみでなく、東大寺造立供養記によると、奈良にも慇懃を運んだ樣であるし、又阿闍梨定兼の承安三年の表白文によると、高野山にも歸依して四ヶ年の衣糧を運んだとある。此等の用向を辨ずる爲には奧州人が少からず上方に往來したに相違ない。遠く隔つた畿内地方との交通にしてすら、既に可なりに頻繁であつたとすれば、それよりも平泉に近い地方との往來は尚更のことで、越後との間には、しかも海路の交通が開けて居つたらしい。撰集抄に越後國志この上村といふ所を「奧よりの津にて、貴賤あつまりて朝の市のごとし、只海のいろくす、山の木のみ、布絹のたぐひをうりかふのみにあらず、人馬のやからを賣買せり」と述べてあるが、唯茲に奧といふ丈けでは奧州を斥するものとは限られぬけれど、長秋記(大治五年六月八日)清衡の二子相鬪へるを記せる條に、兄の方が「依難堪卒子從廿餘人、乘小舟迯越後」とあるのを參考すると、陸奧と越後との海上の往來のあつたことが分かる。唯當時發著の港灣の明かに知り難いことのみが遺憾といふべきだ。而して此の如く奧人が遠近の上國を觀光して歸へることにより、東北陲の文化が次第に其舊態を替へた事は云ふ迄もなからう。つまり秀衡の時に平泉に中尊寺の建てられたのは決して偶然でなく、而して此中尊寺の建立が因となつて、更に四圍の文物を向上せしめたこと、亦歴史上自然の成り行きである。
此の如くにして奧州は平泉藤原氏三代の間に、其平泉を中心として可なりの發達を仕遂げたのであるけれども、然し京都の方からは之に格別の敬意を拂ふに至らず、基衡が折角に請ひ得たる額は、其の頼み主の素性が知れると共に奪ひ返され、嘉應に至りて秀衡が鎭守府將軍に任ぜられると兼實は其玉葉に於て之を評し、夷狄のくせに征夷の任を拜するとはこれ亂世の基だと云ひ、つまり奧州の者は共に齒すべからざる夷狄で、日本の國家の化外に立つ者だと考へられて居つたのである。されば奧州の地の眞に日本の一部と認められ、内地同樣の統治が茲に行はるゝやうになるには、一方に於ては奧の藤原氏の亡滅、一方に於ては、京都藤原氏の攝關政治がやんで、幕府の鎌倉に開かれるのを待たなければならなかつたのである。
文治の役は日本と奧州との間の障壁を殆ど徹し去つたものと云つてよろしい。「君が越ゆれば關守もなし」と源太景季が詠じたのは文明北漸史上の眞理を言ひつくして居る。今迄は上國の文明奧陬に及んだとは云ふものゝ、國内波及といはむよりは、寧ろ國際波及といふ姿を持つて居つたのが、鎌倉時代になると、一國の内で文明が中樞から偏僻の地に流るゝといふ形を奧州に對しても始めて持つやうになつた
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