。要するに以前よりは一層自由に弘宣波及するやうになつたのである。而して斯く成り來つたのは一般氣運の漸移によること勿論ではあるが、政權が兵馬の權に伴つて、其の中心を京都よりも奧州に近い鎌倉に移したこと、與りて大に力がある。王朝の地方政治も、藤原氏の莊園制度と、共に未だ深い印象を與へて居らなかつた其奧州の地に、守護地頭の制度は上方に踵いて布かれるやうになつた。千葉葛西等の、武總に蟠居したる有名な平氏、伊豆相模の豪族たる工藤曾我等の諸氏、野州の宇都宮藤原氏、さては甲斐源氏の諸族等、所謂關東豪族の歴々が多く陸奧に采邑を得るに至つた。中には關東と奧州と兩方で地頭を兼ねたものもある。紫波郡の國道筋に近く、唯今も走湯神社といふのが殘つて居るが、これ或は其附近の地が伊豆國出身の某武人の采邑になつた事がある一證ではあるまいか。總じて東北地方には、歴史の研究に必要な記録も文書も共に殘存する所のもの至て稀で、北に進むに從ひて愈々少く、藤原時代は勿論鎌倉時代の事をも明かにし難く、岩手縣以北に關したもので、今日の所稍※[#二の字点、1−2−22]まとまつて居るといふべきは、結城文書、宇都宮文書、遠野の南部家文書、石卷の齋藤氏文書、盛岡新渡戸仙岳氏、紫波郡宮崎氏の所藏文書等である。此等の文書中時代の最も早いのは、承久四年三月十五日、津輕平賀郷に關したもので、之によれば、曾我五郎次郎の父小五郎の時から、即ち鎌倉時代の始めから之を領して居ることがわかる。其他今の岩手縣廳の所在地盛岡の一區劃は、仁王郷といふ名で鎌倉時代から知られ、駿河大石寺の所藏文書の中に、後藤佐渡三郎太郎基泰といふ人が、建武元年頃に之を領して居つた事が見える。それから少しく南になると、今の稗貫郡八幡村であらうと思はれるのが、結城小峯文書に八幡庄として載せてある。此の如く北は津輕のはて迄も、鎌倉の政令に服して居つたのであるからして、三衡以來の遺跡である此中尊寺の保存に就ても、當時決して注意を懈らなかつたもので、其詳細は中尊寺文書にも見えるが、其外にそれに關する史料で、一寸思ひがけなき場所に在るものを擧ぐれば、京都下京區住心院の文書中、文永元年十月の鎌倉將軍宗尊親王の下知状に當時の執權が連署したものである。
政治の勢力による開發と相伴ひて奧州の文明を進め導いたのは宗教の勢力である。此時代に出來た宗派といへば、いづれも當時新に政權の中心となつた鎌倉は勿論のこと、其周圍即ち東國地方の布教に盡力したのであるが、更に進んで出羽奧州にも及ぼした。それより以前天台眞言の二宗亦出羽奧州に入らなかつたといふではないが、新宗派の方が其活動振りに於て遙かに前二者にまさつて居る。先づ淨土宗に於ては、法然上人の高足なる證空上人の白河の關を踰える時詠んだ歌といふがあるから、同上人も奧州に入つたのであらうし、法然上人の弟子で有名な隆寛律師は奧州に配流になつたことがあり、其弟子實成房も亦奧州に活動した。其外法然門下の一人なる石垣の金光坊といふ僧の如きは、奧州の布教を其終生の事業として、遂に津輕で歿した(或は栗原郡で歿したとの説もある)禪宗に於ては榮西の弟子記外禪師、聖一國師(辨圓)の弟子無關禪師、歸化僧佛源禪師、空性禪師、佛智禪師等、いづれも奧州の布教に力め、道隆の風化も奧州の南邊には及んだらしい。面白い事には鎌倉時代奧州に於ける禪宗の布教的活動は、中山道や北陸道よりも時代の早いことである。次に眞宗に於ては最も有名なのが岩代東山に居を占めたる如信上人で、親鸞面授の弟子の一人と稱せられてある。それよりも更に深く北に入つたのは、紫波郡に遺跡を有する同じく親鸞の弟子の是信房であつて、本願寺第三世の覺知宗昭も、如信の遺跡なる東山迄は來たことがある(最須敬重繪詞)。日蓮宗では日蓮の直弟子日辨日目共に奧州に入り、日興に至つては、今の陸中迄深入りして布教したといふ傳説になつて居る。其他にも日蓮の孫弟子、曾孫弟子等の、奧州に布教したもの數多ある。時宗に至つては開祖の一遍上人が親ら奧州に巡錫したので、弘安三年には江刺郡に祖父河野通信の墳墓を訪ねたとあつて、唯今稗貫郡寺林にある光林寺といふ時宗の寺院は、即ち一遍上人の此巡錫を因縁として出來たとの傳説である。此の如く新に勃興した諸宗派の僧侶が、當時尚ほ麁野の境遇に在つた奧州の住民に與へるのに、宗教的の感化を以てしたのみならず、一般文化の進歩にも少からぬ貢獻をなしたであらうとは、蓋し何人も想像し得る所であるが、それと同時に歴史の研究者にとりて興味の深いことがある。即ち當時此等諸宗の僧侶で奧州に宣教した者は多く奧州にのみ其活動を限つて、出羽の方には入らず、出羽の方へ布教を志した人々は、越後からして入るのを普通とし、出羽奧州兩國を跨いで布教した者とては、其數甚少い。これは此兩國の、鎌倉時代に於ても、やはり其以前と同樣に、風馬牛互に沒交渉と云つて可なる關係に在つたことを示すものと認むべきである。而して王朝文明は奧州よりも出羽の方に早く、且つ深く影響したに反し、鎌倉時代の文化は出羽よりも寧ろ奧州の方に多く感化を與へたことが、これまた此布教の歴史からしても推測され得るのである。
さりながら、斯る諸の事情が共に働いて奧州の文明を向上せしめたとは云ふものゝ、鎌倉時代に於ける奧州は、要するに大した開け方をなし了はせたとは見えない。馬は既に名産の一つになつて居り、閉伊郡大澤牧、糖部郡七戸牧、同宇曾利郷中濱御牧等は、牧場として其名上方にも聞えた事であるが、さて馬の外に名産として算ふに足る程のものがあつたとも見えぬ。蝦夷は此時代を終るまで集團をなして陸奧に居住し、安東家の差圖によつて屡※[#二の字点、1−2−22]叛亂を企て、それが爲め東北地方に兼ねてより關係のあつた關東の豪族即ち工藤右衞門祐貞、宇都宮五郎高貞、山田尾張權守高知等が、嘉暦年間に相踵いで出征を命ぜられたことが、北條九代記に出て居る。而かも此征伐は蝦夷の殄滅によつて落著したのではなく、和談を以て結末をつけて歸參したとあるからには、蝦夷は其儘に居殘つたに相違ない。藤原氏は武家の爲めに政權を失つたが其武家殊に源氏が勢力を養つたのは奧州征伐によつてゞある。然るに其源氏の開いた鎌倉幕府も、其亡滅のきつかけは、安東征伐、手短かに云へば奧州の蝦夷を征伐したが爲めといふ。して見れば數世紀に亘つて日本の爲政者を惱ました問題は、實に此奧州の始末方の如何であつた。されば兩統對立の時代になつてから、南朝が主として此奧州に於て官軍を募る事を力め、中尊寺には殊に關係の深い彼有名な北畠顯家卿を、陸奧守として派遣したのも、亦決して偶然ではないのである。此顯家卿については舞御覽記と云ふものに元徳三年(元弘元年)其宰相中將たりし頃蘭陵王を舞しときの樣を叙して「夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて、えならぬ夕ばへ心にくきに、陵王のかゞやき出たるけしきいとおもしろくかたりつたふるばかりにて」と云ひ更に「この陵王の宰相中將君は、この比世におしみきこえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし、形もいたげして、けなりげに見え給ふに此道にさへ達したまへる、ありがたき事なり」と云へり。斯樣なやんごとなき殿上人の奧州、蝦夷のまだ住んで居る其奧州に、國司として赴任するといふことは、俗にいふはき溜めに鶴の下りた樣なものであるが、此顯家は靈山に居つて下知を傳へ、南部を始めとして其他奧州の官軍を其麾下に從へ、延元二年には十萬餘騎と號する大軍を組織して白河の關を越え、關東の平野に殺到し、鎌倉を陷れ、延元三年には東海道を打登り、追躡して來た足利勢を美濃垂井に逆撃し、首尾よく畿内に乘り込んだ。奧州人の大擧南下したのは、これが始めてである。其前に義經に從つて奧州の者共が源平合戰に參加した事があるけれど、其規模の大小迚も此延元の時に比すべくもない。若し此時に顯家の軍勢が勝利を得たならば、南朝方の御利運といふのみでなく、奧州の者で上方に地歩を占める者も多くあつたらうし、又上方から奧州へ下る者の數も殖え、鎌倉の始に既に殆ど撤廢されて尚ほ少しく殘つて居つた日本と奧州との障壁も、爰に全然取り去られ、奧州の文化は其お蔭で長足の進歩をなし得たであらうと思はれるが惜しい事には事此に及ばず、奧州勢が其中堅をなした顯家の軍は安倍野の合戰に打ち敗れ、顯家は泉州石津といふ所で戰死し、神皇正統記に所謂忠孝の道極まつたのである。が、これ單に顯家卿忠孝の道極りて、親房准后の嘆きを増したのみではない、奧州開發の運命もこれが爲めに暫く閉ぢらるゝ事になつた、これ誠に遺憾の次第と云はざるを得ない。
足利時代になると奧州は鎌倉管領の支配に屬し、諸大名は關東衆といふ名の下に一括され、所謂謹上衆と稱する第二流諸侯の資格を與へられ、篠河殿といふ觸れ頭が奧州に置かれてからは、其統率を受くることゝなり、要するに奧州と上方とは間接の關係になつた。けれども公け以外には上方との個々直接の交通絶えたるにあらずして、大名の遙々見物がてら京都に參覲し、將軍の諱の一字を貰ひ受け、それを土産に歸國するもの少からずあつた。南部家の歴代の中に晴政といふ人があるが、此人上洛して將軍義晴の一字を貰ひ受け、晴政と名乘つたなど其一例である。南部系圖には、甲斐源氏として同族なる武田晴信の晴の一字を請ひ受けたと記し將軍義晴の一字を賜はつたことをば唯別説として記してあるが、却へりて公儀日記の方には、此度偏諱を賜はり度いとて上洛して居る南部といふ者は、奧州でも聞ゆる豪の者であるから、望み通り與へられて宜しからうと評議一決したことが載せてあつて、晴の字が將軍の偏諱であること紛れもない。斯かる例は南部に限らず、その他奧州の諸大名に共通なことで、義輝將軍の頃までは此連中可成りにあつたらしい。義昭の時には將軍の光りが大に薄くなつて、參覲者の數も殆ど皆無となつたが、それでも、石川大和守ばかりは、義昭將軍に謁見し、諱の一字を賜はりて昭光と名乘つたといふ。上洛者の獻上物は南部などは馬であるが、一般には鷹であり、京洛に滯在し久しきに渉る者は、歌道などを稽古し、一廉の歌人となり、名を新菟玖波集に列し得て歸へるもあつた。大名のみならず其臣下の者共までも伊勢參りをし京都見物をして歸へるもあり、兵亂の爲めに歸路を斷たれた上洛者の中には、その儘都に留まりて、或は旅宿の娘などに契り、彼の地で一生を終へた者もあつたらしい。上方からして奧州へ下る者には鷹買、馬買、遍歴藝人、武者修行、僧侶等であつて武者修行の中には根來法師等も交つて居つた。奧州に始めて鐵砲戰を教へたのは、其等根來法師のやうである。斯く上方と奧州と兩方からの往返絶えず、その爲めに奧州に於ける文武二道は振興し、住民の見聞も大に擴まつたから、足利末の奧州は之を鎌倉末の奧州に比べて、若干の進境を見たこと爭ひ難い。有力なる大名の城下には、未熟ながら文化の小中心も出來た。會津の如きは其尤なるものである。
若し大彦命に關する傳説を、其儘に信じ得るならば、奧州の内で古るい歴史を有して居る土地といへば、先づ會津に越すものはなからう。又之を假托説とするも、それにしても會津の名稱は、書紀編述時代に既に知られて居るから、今日奧州にある諸都市よりも遙かに古るいこと明かである。蓋し會津の地たるや、四方山脈に取卷かれて居るにも拘はらず、奧州からして出羽と越後とに入り得る要樞であるから早くよりして可なりの繁昌があつたらしく、鎌倉時代の末には、此土地の平民の家に生まれた孤峰和尚といふが應長元年商舶に附して入元したとある。後醍醐天皇の歸依を博した、雲樹國濟國師といふのが即ちそれだ。斯かる人を出した事によつて、當時の會津の文化の、まんざらでなかつたことが推せる。其後戰國時代になつてから、會津は蘆名、伊達、上杉、蒲生等の名族の城下となつたが、主は頻繁に替はつても、會津の繁昌は益※[#二の字点、1−2−22]加はつた。といふのは前にもいふ如く地の利を得て居るからである。徳川時代になつて有力なる親藩を爰に置いて、奧羽の諸大名を監視させたのも、斯かる理由あればである。いま繁昌の一端を述ぶれば、蘆名家
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