大納言になった時には、また上席の者六人を飛び越しての昇進であるから、彼にとりてはめでたいという方が至当だろう。
 実隆の立身は実隆の思い通りに行かないとしても、はなはだしく坎※[#「土へん+可」、第3水準1−15−40]《かんか》不遇を歎じなければならぬほどでないことは、上文に述べたごとくであるのみならず、実隆は他の公卿に比して天顔に咫尺《しせき》する機会が多かった。これは彼が侍従の職にほとんど絶え間なくおったからで、しかしてその侍従として久しく召仕われたのも、畢竟ずるに彼の文才抜群の徳のいたすところであったろうと想像される。さてこの文才の秀でた実隆が、侍従として朝夕奉仕し、たんに表立った儀式に臨んだのみならず、内宴その他の宮中燕安の席にも陪し、その光景を日記に書きしるしておいたのが、これまた後世の人に教うるに、当時の九重の奥にも、いかに下ざまに流行した趣味好尚が波及しておったかをもってする貴重なる史料で、換言すれば日本の文化史に、大なる貢献をなしているのである。いま読者の参考に資するために、実隆が陪観したという遊芸の重《おも》なるものを挙ぐれば、京都のものでは、七条辺に住居した西川太
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