ている。また三条西家自分用のためのみならず、荘園の主として幕府から人夫を課せらるることもあった。たとえば義政の東山の普請につき、文明十七年春厳重な沙汰を受け、西園寺家と相談のうえ百十人の人夫を出したごときはその一端である。
 かく述べたてると山城国から得られる三条西家の収入は極めて多端であるように見えるが、実隆の晩年大永七年ごろになると、御牧のみの未進が十二貫文の多きに至っているから、他もこれに準じて未進が多かったろうと思われる。山城に在る分すら右のとおりであるとすれば、ましてそれよりも遠い国々にある所領からは、満足に年貢の納まろうはずがない。次には実隆がいかなる苦心をして遠国からこれを取り立てたかを叙述しよう。
 山城国以外で京都に近い三条西家の荘園を算《かぞ》うれば、先ず丹波に今林の庄というがあった。本来どれほどの収入があったのか知れぬが、文明九年には十石の分を竜安寺に寄進したとある。おそらくは爾後三条西家へは、ほとんど年貢米の納入がなかったのではあるまいか。日記永正七年十月の条に「年貢米二石初めて運送の祝著極まりなく千秋万歳自愛自愛」とあって、思いがけなかった仕合わせのように記し
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