て盛んになったのみならず、日本人の手が蝦夷島に伸びて、そこに恒久的根拠を有するに至ったのも、実にこの時代からの事である。五畿七道とてもまた同じことだ。数多の中枢が海運によって聯絡されてあったばかりでなく、陸上にも諸種の用向を帯びた旅客が絶えず徘徊しつつあった。しかしてその往来に必ずしも護衛を付するという次第でもなかった。かの宗祇およびその流れを汲む連歌師らは、鎮西から奥州まで、六十六国を股にかけ、絶えず旅行のしどおしであった。しかるに彼らの日記には、旅行危険に遭遇した記事が多くない。想像するほどに交通が杜絶しなかったことは、それによっても明瞭である。のみならず、不安の状態にも種々あって、全国に善く行き渡ることもあれば、あるいはまた一地方に局限されることもある。もし足利時代の不安が日本のある一部に限られておったものならば、その部分と他地方との連絡の、あるいはしばらく遮断せらるることがあるだろう。しかしながらこれに反して京都を始めとして六十六国ほとんど同じような不安の状態にある足利時代のごときにおいては、どこがまったく安心だというべき場所がないのであるから、不安の点において全国均一に近い。
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