6]局から白帷一を送ったので、音一は祝着の体で出発したのである。その音一の周防から上洛したのは翌年の十月であるが、その後|検校《けんぎょう》となり相変らず実隆邸で『平家』を語り、七年九月に駿河国に下向した時には実隆の手紙をも頼まれたのである。おそらくは久しからずして音一は駿河から帰洛したものであろう。永正九年閏四月には、能登へ遍歴のため出発したのであるが、その発足以前に、実隆はかねて音一から所望されてあった『伊勢物語絵詞』を書写してやった。伊勢の北畠と実隆との音信も、またこの音一の取次であったろうと思われるのは、永正七年五月、音一が伊勢に下向せんとした時、実隆がこれに木造ならびに龍興寺宛の書状を託したのに、同年七月北畠家からして任官の礼だといって、五百疋を贈ってきているからである。
以上述べきたったほかに若州武田の被官粟屋左衛門尉親栄は、勧修寺家の縁故からして実隆のもとに頻繁に出入した。殊に文亀三年四月には、一日から十七日まで、毎日三条西家を訪うている。また永正元年には実隆のために金策をしたこともある。この粟屋が若州に在る伏見殿御料松永庄の代官職を命ぜられたのは、あるいは実隆の推挙に
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