家と実隆とは、その音信に必ずしも宗長を介したわけではなく、永正六年氏親が黄金三両を実隆に送った時などは、相阿がその取扱いをした。
 駿河の今川家は、その京都との関係からしていうと、周防の大内家に似た点がある。されば実隆のごとき、当時の京都文明の一半を代表した人が、この両家に特別の交際をなしたことも怪むに足らぬ。しかして実隆とこれら両家との間には、好便による書状の往復や、遍歴する連歌師などがあって、これを聯絡しつつあったのである。ほかに、聯絡の一鎖をなした者の中には音一という座頭などもあった。音一はもと尾張生れの者で、六歳にして明を失い、十二歳のとき京都へ出で、『平家』を語ることを稽古してその技に熟達した。同人が実隆に紹介されたのは、永正三年その二十四歳の時で、紹介人は実隆と別懇なる渡唐の禅僧了庵であった。初対面の時には実隆に数齣の『平家』を語らせ一泊させて帰した。この音一これが翌永正四年五月、西国での文芸の保護者なる大内家をたよって周防に下向したが、その出発の際には、実隆より餞別として帯三筋、三位局と、新大納言典侍から帯各一筋、上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−2
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