った。故に宗祇によって、それら本職ならぬ連歌師と実隆との交際も始まった。武人にして宗祇の弟子なる杉原伊賀入道宗伊、上原豊前守、二階堂入道行二、玄清の弟子宗祇の孫弟子なる明智入道玄宣等は、おりおり実隆と一座した人々である。宗祇はまたさまでに名のない田舎人をも実隆のもとに同伴し、または仲介となりて和歌の合点などを依頼した。薩摩の僧珠全や、美濃の衣斐出雲なども、皆かくして実隆に紹介された人々である。そのほか日記には明かに見えぬけれど、越後国の高梨刑部大輔政盛が『古今集』を書いてもらって、五百疋の礼をしたことや、越後上杉家の雑掌神余隼人が、実隆と別懇になったのも、直接あるいは間接に宗祇の越後通いによって作られた因縁だろうと察せられる。神余隼人の始めて実隆のもとを訪うたのは、宗祇の歿後永正元年の春のことで、初対面の土産として、太刀一腰、金一緡を持参におよび、色紙三十六枚に和歌を書いてくれと所望した。しかるに実隆は一儀に及ばずこれを承諾し、一盞を勧めてもてなした。これによって察するにこの神余なる者はよほど早くからして、少なくも音信くらいをした人らしく見える。されば永正七年には隼人のみならず、その女
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