が賛を書した。しかしながら多くの人は、宗祇の後継者たる実隆の賛を望むので、実隆はあるいは己れ賛を草してこれを書き、あるいは宗祇の句を賛語に擬して書いたこともある。『国華』第二百七十号に載するところの宗祇の肖像のごときはすなわちそれである。
 宗祇との親交は、ひいて宗祇門下と実隆との交際となった。肖柏のごとく少年より交久しく、宗祇の関係によって、いっそうその交情を深くした者はいうもさらであるが、それ以外に宗祇の弟子で最も多く実隆の邸に出入りしたのは、宗長、玄清、宗碩等である。これらはいずれも実隆の家事向きに関係を有したこと宗祇同様であった。宗長は三河・駿河方面に多く旅行し、今川氏親の眷顧を受けたので、永正五年には氏親から実隆への贈与金二千疋を取り次いだことがある。今川と実隆との間は、必ずしも宗長をのみ介したのではないけれど、この二千疋の時には、実隆もよほど嬉しかったと見え、「不慮の芳志なり、闕乏の時分、いささかよみがえるものなり」と日記にしるした。玄清は文亀二年実隆が座敷を増築しようとした時に、相談を受けてその金策をしたことがあり、前に述べたごとく『源氏物語』を甲斐国の某へ売却の周旋をし
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