であったろう。何故に『三体詩』からして始めたかというに、これは当時流行の教科書であったからで、ちょうど徳川時代において、素読といえば『大学』からして始めたようなものだ。そのいかに流行したかは、明応四年に新板の出来たのでも知れる。その『三体詩』の講釈をば文明九年には、宗祇法師の庵で、正宗から、文明十一年に蘭坡から聴いた。翌年には同じく蘭坡からして山谷の詩の講釈をも聴いた。蘭坡和尚というのは南禅寺の詩僧である。また当時山谷とならんでもてはやされた東坡詩の講義をば、桃源周興から聴聞した。周興をば実隆は「間出の雄才なり」と称讃している。かくのごとく詩集に造詣のあったくらいであるからして、彼はまた時々作詩をも試みた。禁裏での和漢の席に列し、また勅命によって孫子※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》[#「孫子※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]」は底本では「※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]子孫」]と※[#「嫡のつくり」、第4水準2−4−4]山《てきざん》とを題とせる詩を作ったことは文明十二年の日記に見え、永正三年には陳外郎から和
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